カイロプラクティックの歴史

 

画像:D.D.Palmar

カイロプラクティックの創始者、ダニエル・デビット・パーマー(1845~1913/上の画像)は、アメリカのアイオア州ダべンポートで、当時流行していた磁気治療業を営んでいました。

治療家である彼が日頃抱いていた疑問は、「同じ家に住み、空気を吸い、同じ食事をしているのに、ある人は健康であり、ある人は病気になるのは何故だろう?」というものでした。

ある日のこと、パーマーは彼のオフィスの入ったビルで働くハービィ・リラート゛という青年に会いました。 そしてパーマーは、ハービーが重度の難聴であり、それが17年前に突然起こったという事を知りました。(ハービーは、納屋で体をかがめて作業していた際に背中を痛め、その後から耳が聞こえなくなった様だ...と説明)

またハービーの難聴について、病院(医者)では全く原因がわからなかったいう事を聞いたパーマーはハービィに興味を持ち、彼の体を観察してみました。 パーマーはハービィの背中を触って行くうち、彼の背骨のある部位に、他の部位とは異なる(隆起した様な)質感があることに気づきました。

1895年(明治28年)の9月18日、パーマーはハービィを説得し、自分の手を使って隆起した背骨の部分に素早い押圧を加えてみました。

すると、その直後に17年間も聴こえなかったハービィの聴力に大きな改善が見られ、後日の数回の施術により、ハービィの聴力は完全に回復しました。

パーマーは、自分が行なった行為で何が起こったのか?いったい何がハービィの聴力を回復させたのか?について、膨大な数の医学書、医学文献を調べ考察しました。 そしてパーマーが導き出した結論は、「多くの病気は、神経のトーン(はたらき)の変調による自然治癒力の低下によって引き起こされる。」というものでした。

また「背骨に起こった異常(サブラクセーション)は、神経のはたらきに変調をきたす原因になる。」というものでした。これは当時の西洋医学には無かった新しい概念でした。当HPではサブラクセーションではなく、関節機能障害として表示しています。

参考:カイロプラクティック創始者の功績

 

現在、自律神経系(交感・副交感神経)の働きのアンバランスが、様々な病気や身体の不調を来す要因になる...ということは広く認知されていますが、19世紀末ではかなり斬新なものでした(同時代にはドイツ人医学者のロベルト・コッホが、結核菌やコレラ菌を発見したことで、「全ての病気は細菌により引き起こされる」というのが、当時の医学界では主流になりつつありました)。

D.D.パーマーは高等教育こそ受けていませんでしたが、移動図書館を持つ程の書物を所有しており、また周囲が驚く程の医学知識を有していました。(実際に若い頃は教員の仕事もしていました)

当時、米国ハーバード大学のO教授がパーマーについて、「私が生涯に出会った3人の天才の中の1人」と評していたことも、1世紀以上を経た今日では納得できます。

また、パーマーと交流があった発明家のトーマス・エジソンは、「将来の医学は、薬に頼らず、食事(栄養)と人体の骨組みに注意を払う様になるだろう。」とのコメントを残しています。

 

そして、この新しい医学的概念は、パーマーの友人であるサムエル・ウィード牧師(パーマーの施術を受けて心臓病を克服した娘の父親)の提案によって、ギリシャ語源のカイロ=「手」とプラクティコス=「~なされる/技術」とを合成したカイロプラクティック(Chiropractic)と名づけられました。

但し、骨格を矯正・調整するという行為そのものの歴史はとても古く、西洋医学の父、医聖とされている、古代ギリシャ時代のピポクラテスらによっても行なわれていました。しかし、それらを再発見すると共に、科学的、医学的に理論体系化することで、洗練された手技医学として確立されたものがカイロプラクティックなのです。

画像:D.D.パーマーと当時のカイロプラクター達

D.D.パーマーによって創始されたカイロプラクティックは、彼が設立したパーマー・スクール(現パーマー・カイロプラクティック大学)などで教えられ、彼の息子であるB.J.パーマーやD.D.パーマーの教え子達へと引き継がれ、発展して行きます。

参考:カイロプラクティックの発展者

 

画像:B.J.Palmar

D.D.パーマーはカイロプラクティックの創始者として知られていますが、カイロプラクティックに勢いを与えたのは彼の息子のB.J.パーマー(上の画像)やD.D.パーマーの教えを受けた弟子たちでした。

その中でも、父親のスクールの経営を引き継いだB.J.パーマーは、カイロプラクティックのデベロッパー(発展者)として、業界の発展に大きく貢献した1人でした。(彼の存在無くして、今日のカイロプラクティックはなかっただろう...と評する人も少なくありません)

B.J.はカイロプラクティックを科学的に裏付けるために、臨床施設に当時の世界最高水準のレントゲン設備を導入したり、当時の世界最高峰であったドイツの研究施設での実験を行うなどしました。また、今日の脳波計の原型を考案したのも彼でした。(彼は全米各地で多くの講演会を行い、30冊以上の書籍を執筆しました)

B.J.は経営者としての才もあり、カイロスクール以外にも、ラジオ局(当時、レーガン元大統領は同局のアナウンサーをしていました)など複数の会社を経営、また世界最大規模の骨標本博物館を所有するなどしていました。

彼の独断的な振る舞いは周囲との軋轢を生み、時には非難の対象にもなりましたが、1900年代前半におけるカイロ業界のカリスマ的な存在として君臨しました。

 

その後は医療の独占を目指す米国医師会からの激しい弾圧を受けるなどの苦難の中、カイロプラクティックは治療を受けた多くのアメリカ国民の支持を受け、1913年のカンザス州での法制化を最初に、1974年迄にはアメリカ全州において医療(プライマリー・ヘルスケア)として法制化されました。(1980年代にカイロ側は独占禁止法違反として米国医師会を訴え、カイロ側が勝訴し和解をしたことで、半世紀以上に渡る両者の争いに終止符が打たれました)

米国から世界に広がったカイロプラクティックは、欧米先進国を中心に、現在までに世界44カ国で医療または代替医療として法制化されています(近年ではイタリア、フランス、イスラエル、ポリネシアなどで医療として法制化されています)。

またカイロの誕生からおよそ1世紀後の1997年には、世界カイロプラクティック連合(WFC)が国連のWHO(世界保健機関)のNGO(非政府組織)メンバーとして承認され、世界の正統なヘルスケアとして確固たる地位を築くに至っています。(現在WHOが認めている医療は、西洋医学以外では針灸とカイロプラクティックのみ)

補足/日本人で最初のカイロプラクターは、日系人の森久保重太郎(ウィスコンシン州にて開業、彼の兄は日本の自由民権運動の先駆者として知られる政治家の森久保繁作蔵)です。また、彼は米国医師会からの弾圧により逮捕されたカイロプラクターとして、米国でも知られています。

画像:森久保繁重太郎

また現存する資料から、日本に初めてカイロプラクティックが紹介されたのは、1916年にパーマースクールを卒業して帰国した川口三郎(神奈川にて開業、後にハワイに移住)によるとされています。

その後、太平洋戦争により日本人のカイロプラクターは長らく途絶えていましたが、1969年に戦後初の日本人カイロプラクター(米ナショナル・カイロプラクティック大学卒)の竹谷内氏、1972年には戦後二人目の日本人カイロプラクター(米ロサンゼルス・カイロプラクティック大学卒)の須藤氏が帰国しました。

幸いにも、筆者は戦後の日本におけるカイロプラクティックのパイオニアである両氏からのご教授、ご指導を受けることが出来ました。