8月23日(木) その5 

  軍命による毒殺   南風原陸軍病院跡 (その2) 
  

 中央部で貫通していた19号、20号、21号の壕。
  そのうちの20号。 入り口の30mは、ほぼ当時のままだが、奥の方はこの62年間で、崩落がはげしく、 補強してある。
  巾と高さが、1.8mで彫られている。 中は、火炎放射器で焼かれたため腰から上が真っ黒く焼けた状態。
  つるはしで彫れるくらいやわらかかったため、くずれるのを防ぐため、3尺(90センチ)おきに坑木を打って補強してあった。
  その坑木が焼けて、風化して残っている。 もろくなっているので、是非触らないようにと注意があった。
  両サイドには溝が、勾配をつけて排水も行われていた。  

 文化財として保存を図りながらの一般公開。  
  人や懐中電灯の熱がこもっただけでも影響があるという。
  そのため、見学者は一度に10人以下に絞るという。 仮に40人のグループが来ても、4班に別れ、時間をづらして見学してもらっているとのこと。  
  貸し出された懐中電灯も、LEDが使用されているのもので、熱にはかなり神経を使っていることが良くわかる。

 その懐中電灯で壁を照らしてみると、染み出した石灰水が、幕を作って鍾乳洞のような色になっている。
  巾と高さが、1.8mとは言いながら、実際にはかなり天井が低い場所もありかがまないと通れない。  
  そんな通路のほぼ半分に、90センチ巾の2段ベッドがあったという。
  軍属のベッドと傷病兵のベッドは、中央部で区別されていたが、ベッドに入れず通路に 寝かされていた傷病兵も多く、通れないほどだったという。
  21号の壁沿いに、休憩所があったが、ひめゆり部隊は通路に板を敷いただけの場に、交替で仮眠、それでもほとんど横になるスペースがなく、立って眠っていたという。
  中央部の十字路が手術室となったのは、一番空間が取れる部分だったからとの。 それでもどれだけのスペースというのか。

 壕は、外から中からも直接見通せないように、クランク状に彫られ、出入り口は、毛布を2重3重に重ねて、光が漏れないようにした。
  そのため中は、風通しがほとんどなく、湿度もかなり高かったという。  

 そして、その中で青酸カリのよる毒殺があったのだ。
  そこに勤務していたひめゆり学徒の方の証言によると、ミルクが配られた後、壕の中が騒がしくなった。
  南部に撤退しながら、兵隊のお兄さんと偶然出合ったという。そのとき壕であったことを絶対話してはならないと口止めされたという。 50何年間づっと胸にしまっておいた。 私があの時見たのが青酸カリだろう。騒がしくなったり、「貴様それでも、日本人か」との罵声が飛んでいたという。

 又この20号ではないが、この丘の壕にいた男性の証言。
  体が動かなかった。置いていかれた。その後に日本軍が来てミルクを配った。  最初口をつけてピリピリした。苦いなと思って、もらってあった黒砂糖を少し入れたがまだピリピリする。  黒砂糖を全部すりつぶして入れ、一気に飲んだがめまいがした。毒だと気がついて指を入れて吐いた。  殺されると思ったら、歩けなかった体で、逃げた。  走って逃げたら、後ろからパンパンパンとピストルを撃たれた。「逃げるな」と。
 軍医が配ったところもあり「処置しなさい」と、軍命があり毒殺されたという。  

 ところで、この20号の壕の近くに、この6月23日に除幕されたばかりの「憲法九条の碑」がある。  
  又すぐ隣には「鎮魂と平和の鐘」もある。  

  

  先の参議院議員選挙の際、志位委員長が沖縄遊説に立ち寄った際、同席した南風原町の元町長金城義夫氏は、
  「南風原は当時は村で、沖縄戦により、住民の43%が犠牲となった。」
  「本土復帰のたたかいは、憲法九条のある日本への復帰を願ってのものでした。」
  と語ったという。    

 帰路についた際、足元に鉄の塊が地面に刺さっていた。  
  与儀さんの話では、沖縄戦の時の砲弾の欠片だという。  
  今でも、地面を掘るといくつも出てくるという。  

  

 写真で、一番大きなものは、長さが、11センチに及ぶもの、そのほかにもいくつか採取できた。
 (空港で、検知器に引っかかるかと思ったが、素通りで持ち帰ることが出来た。)  
  丸く見えるのは、薬きょうだという。

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8月23日(木) その4 

  南風原陸軍病院跡  (その1) 
  

 今年6月18日より一般公開された南風原(はえばる)陸軍病院跡。
  「黄金森」(「こがねもりと聞いたが、どうやら(クガネムイ)と発音するらしい」いう丘に、約30本の壕が掘られた。
  短いので10m、長い物は70m。
  1944年10月10日の那覇空襲で、那覇にあった陸軍病院が焼けてしまって、その後にこの南風原に移ってこの壕に設置されたのがこの南風原陸軍病院跡。

  「ひめゆり」学徒が、真っ先に動員され壕堀を行ったのもこの現場だという。

  1990年に、町はこの壕群を「戦争遺跡」として全国で初めて文化財に指定。
  一般公開に向け整備工事を進めてきた。
  城間南風原町長は「平和の大切さを学ぶ県民の財産として活用していきたい」と話したという。
  松代大本営跡は、いまだに史跡していないようだが、首長の姿勢の違いとも言える。

 われわれが、見学できたのは、「20号」跡。

   
 
   写真にあるように、入り口は、かなり整備されていた。(こっちは西口)


 
   これは、ひめゆり平和祈念資料館の図録からの転写だが、それによると、19号、20号、21号は繋がっていたことがわかる。
  そして、この壕の中で「医療行為」が行われたいた。
  しかし、実際は、麻酔なしで患部を切除するだけの行為がほとんどだったという。
  血の匂いが充満、蛆もわき、トイレもないという環境。
  20号には、1945年に「歩ける兵隊は逃げなさい」と撤退命令が出、足を切断したなど動けない患者は、「後でトラックが来る」と言い残こされ、残ったという。
  しかし、はじめからトラックなど来る予定はなく、代わりに、残地隊が来て、ミルクの中に青酸カリを入れたものを飲ませていったという。

  以下続く)

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8月31日(金)  

  人口減少社会の中で地域が選ぶ戦略は? 
  

 松本市経済対策会議主催の講演会が行われた。
  講師は、(財)長野経済研究所理事 調査部長 平尾勇 氏。
  プロフィールによれば、 長野県経済を中心に構造分析調査、成長産業分野に関する調査、観光振興計画、産業ビジョンに関する調査などを担当、「長野県産業振興戦略プラン」策定(平成19年3月)の際は、長野県産業振興懇談会委員長を務め、「塩尻市産業ビジョン策定調査」(平成16年)に携ったとある。

  「長野県経済の構造変化と今後の展望〜人口減少社会の中で、地域が選ぶ戦略とは〜」
 
と題された講演だったが、その本題の前置きで氏は次のように述べた。  

 本日で、村井県政が発足して、ちょうど1年。振り返って見ると、まだ成果は現れていないが、この6年間で失われたものを確実に回復したといえる。
  1つは、県職員との一体化、もう一つは、産業界との距離がずいぶん縮まった。 そして3つ目に市町村との距離も縮まったといえる 県の中期計画が出来、産業ビジョンがまとまり、現在は実行に移す段階。
  今日の話は、県の大きな変化の中で、プランをご紹介しながら、たぶん県と市町村が協働する場面が出てくるのではないかと思う。 県の政策と歩調をあわせて進めていくことが松本市の経済対策会議ではないかなと認識している。 県の施策のご紹介をしながら、どうやれば、効果の上がるものとなるのか考える必要がある。そんな視点でお話したい。

  ところで、マスコミによれば、村井知事は今日の記者会見で、一年間の県政運営を振り返り、
  「ゼロからというよりマイナスからのスタート。がれきの山、倒木、雑草を片付けて土づくりが終わった。ようやく種まきができる環境になった」
  と感想を語ったという。
  その上で、現在策定作業を進めている県中期総合計画(2008〜12年度)を実行に移すことが「種をまき、苗を育てるということになる」
  と発言したという。  

 いわば同日、同時進行的に、長野県経済の構造変化と今後の展望を村井県政との関係で語る講演会であることが前置きされたことになる。    

 県のHPによれば、現在この中期総合計画の策定作業が行われ、12月議会に提案されるということだが、どうやら今日の内容は、「策定の概要」として発表されているものに沿っていることがわかる。

 さて、本題はパワーポイントで47ページに及ぶ内容で、傾聴に値するものは有るものの、 「景気が後戻りしない理由は?」は、3つの過剰(債務、雇用、設備)の解消と史上空前のリストラによる低成長下での利益を出し易い経営体質への変化をあげているが、要は、「格差景気」、「企業栄えて民滅ぶ」実態の中で、 「マーケティング力」や「マーケットの探索」の展開で、果たしてどれだけの企業と住民に恩恵があるのか、「ヌレンザとレクサス」の話は象徴的だ。
  一部の企業にとってはともかく、「格差景気」回復の中で、マーケットは無限ではない。
  そして、その理論を自治体運営に持ち込むやり方は、直感的には「自治体バブル」の再来という印象を免れなかった。  
 最後に、 行政の役割、あり方として語られた、民間の手法を取り入れた「業務改革への取り組み方」「ミドルマネージャー論」の部分は、ともすれば住民を忘れた組織論、リーダー論に陥る危険性を感じた。  
  (全てを紹介できないのが残念です。)

 県の中期総合計画などの詳細な検討を行っていないので、即軽々に結論を語るのは控えるべきだが、住民福祉の向上、「住民が主人公」の地方政治のあり方との関係では、大いに関心を払いたいと思う。
  県の中期総合計画に関しては、ここをクリック

  「空白の6年間」とか、「がれきの山」論でなく、この6年間の県民の貴重な経験の上にたっての検討が必要と感じる。

  「人口減少社会の中で地域が選ぶ戦略は、」どうあるべきか。  
  そうして意味では、実に問題意識を整理できた講演に感謝したい。

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8月23日(木) その3  

  「私達は、生かされています。」 
  

 映画で有名になった「ひめゆりの塔」がある、「第三外科壕」跡。  
  ここでも、靖国派とのたたかいの歴史がある。

 入り口を入って右側に、もんぺ姿の石像があるが、余り関心をよばないものだが、この姿こそ「ひめゆり」の象徴だと、案内の与儀さんは話してくれた。
  「お国のために戦った乙女たち」ということで、まさに賛美の対象として、靖国派は、この地をも利用しようとしているという。  

 与儀さんは、この壕を「第三外科壕」と呼ぶには抵抗があるという。
  それは、このそもそも「ひめゆりの学徒」の、「ひめゆり」という呼称もその成り立ちを確かめる必要があるとのことだが、もともとこの「ひめゆり」は、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の同窓会の名前。  
  女子学徒が、陸軍病院に動員された経過は、省略するが、この「第三外科壕」は、南風原陸軍病院(夕方に視察予定あり)から撤退してきた日本軍と女子学徒が、もともと住民が住んでいたこの壕を乗っ取る形で、住み込んだのがこの壕だという。  
 
  こうした住民を軍が追い出して、設置した事に関しては、最近、証言の中で語られるようになったという。  
  ここでも、住民を守らない日本軍の姿があるだけでなく、さらにこの壕は、竪穴でおくがない行き止まりの壕だが、日本軍は、この壕の中でも、「入り口」付近に女子学徒を追いやっていたという。

 生存者の証言 によると  壕にいた100名のうち 女子学徒は40名。
  その生徒は壕の入り口の近い方におかれた。  
  潜んでいると、米兵が来て、「出てこないと爆弾を投げ込みますよ。」と片言の日本語で語った後、ガス弾が投げ込まれたという。  
  蓋も、奥行きもない竪穴の洞窟。女子学徒は、「1センチでもいいから、奥へ行こう」としたときに、爆発した。
  生き残ったのは、5人。  その内の一人が、「手りゅう弾」をもって出て、「自決」しようとしたが、不発弾で生存したという。

  「美しい最後を遂げたひめゆりの女学徒。」だけではない証言が、30年後に行われた。
  「お国のために戦った方に、頭を下げて何が悪い」 靖国派や安倍首相は、この言葉を繰り返すが、この「ひめゆりの塔」も第二の靖国神社にしようとする動きがあるのだという。

  「私達は、生かされています。」

 これは、証言者の声で、そこから証言が始まったそうです。
  証言者の声で、15年戦争の実態と沖縄戦の本質はさらに明らかになる。

  「『ひめゆり』だけが女子学徒だけではない。」
  与儀さんは、そう語って、次のところに案内してくれた。
  女学校は、あと5つあり、すぐ近くに碑があった。 そこは、あまり注目されない場所だという。

 (以下 続く。 今後は、少しずつ 日誌に挿入する形で、発信したいと思います。)

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8月23日(木)  その2 

  「まっくらしん」   トゥドゥルチガマ(轟の壕) 
  

 午前中の平和祈念資料館に続いて、午後は、「轟の壕」を訪れた。
  沖縄語では、表記のように「トゥドゥルチガマ」と発音するという。

  「轟の壕」については、ここをクリック

  

 写真は、ガマの入り口に下っていくときの写真だが、今回は佐賀県鹿島市の鹿島ドリームシップの皆さんといっしょに「体験」と「学習」した。
  鹿島ドリームシップとは、「少年の船」の活動で、今年で23回目の歴史を持つ市内の7つの小学生から募集した60人の5,6年生の集団だ。
  沖縄に「ガマ体験」があることを聞いて、めったに出来ない、貴重で、印象に残る体験なので、「ひめゆり」などはいつでも行けるが、又普通に観光で来たのでは見られないので、最近は、毎年のスケジュールの中に入れているという。
  後でも触れるが、こうした体験は実に大切なことだ。  

 鍾乳洞の入り口から、少しずつ入るにつれて足場も悪く、天井も低くさらに「真っ暗しん」になる中、懐中電灯の光だけが頼りだ。  
  この中に、600人にもいたとは、実に信じられないことだ。
  戦後、沖縄でも、「あなたも居たの」と確認しあうことがあったとのことだが、確かに蝋燭の火だけでは、お互いがまったく確認できない状況だ。  

 この間の雨で、地面の部分は、ぬれていたが、もともとこのガマの名の通り、この洞窟は、毎日大雨で、濁流が流れ、轟いていたという。
  そんな中、その濁流に流されないようにしがみつくだけでも大変な状況だ。  
  流れが静まった後に、死人が水にポンポン浮いていたという。
  生まれたばかりの乳飲み子を抱えた母親が、母乳が出ずに、泣く子をあやすのに対して、日本兵が、「そいつを殺せ。うるさい。アメリカ兵に聞こえるではないか。」と日本刀や軍刀を向けたり、実際に証言の中では、泣く子が切り殺されたこともあったという。
  必死で食料を確保しても、その食料を日本兵が取り上げてしまうこともあったという。  

 比較的広い場所に全員がそろった「真っ暗しん」の現地で、1日目も案内してくださった与儀さんが、テープレコーダーを回し、証言者の話を流してくれた。  その前に、「『まっくらしん』てわかりますか。」との与儀さんの質問に、子供達は、すぐに「真っ暗で、静かなこと。」と答えた。

 その証言は、当時警察官の方で、家族(奥さん、0歳と3歳の子ども)とともにこのガマでのことを、2004年1月に語った内容だという。  
  テープが流されたが、ほとんど理解が出来ない沖縄弁の語りで、与儀さんが解説してくれた中身は以下のものだ。
 (順不同であり、複数の証言者の中身もいっしょかも知れませんがよろしく)

 沖縄戦のときは食べるものがなかったから、ほとんどの母親の母乳は出なかった。
  そこで、母親は流れる水を口に含んで、口移しに水を流し込んでいた。しかしまったく栄養のない水では。その方の2人の子供さんも死んでしまったという。 亡くなった子どものてのひらに、ご飯を握らせ、戦争後2年後にその遺骨を収集に行って、取り上げてきたという。
  戦闘が終わって、アメリカ兵が、入り口付近で、「出て来い」と叫んだ。 日本兵は、「外へは出さない。出るんじゃないぞ。アメリカにばれる。」といって出さなかった。 「いいかお前達、アメリカにつかまったら、女の人は裸にされて殺される。男は拳銃で ズドン」の話を信じ込んでいた。
  ある時、鍾乳洞の壁をよじ登り、地面の穴から顔を出したとき、アメリカ兵がその場に居たという。 出て行ったある人は、英語が話せたため、アメリカ兵に代わって、入り口で出てくるようにと説得を行ったという。 出ていくと、アメリカ兵は水や、缶詰、タバコを差し出してきたが、誰もそれを口にしなかった。 「毒が入っている。」と日本兵が宣伝していた結果だ。 そこで、アメリカ兵は、まず自分でタバコを吸って、チョコレートもかじってから渡すようになった。 「おかしいな、死なない。」そうした中で、アメリカ兵を信用するようになったという。
  日本兵が刀を抜いて、その子どもを殺せ。と何度も迫られる中で、赤ちゃん抱いて出て行った母親。そしてまったく帰ってこない。または一人で帰ってきた場合もあったという。
  夜になってガマを抜け出し、食料持ってくると、日本兵に盗まれたという。 ガマにいた日本兵は、死んだ階級の高い兵隊の服をきて来ってきた。 そして、投降してガマを出るときは、今度は住民の服に着替えたという。 それでも、「あの人は兵隊です」と住民がアメリカ兵に耳打ちすると、アメリカ兵は「ユーアー ソルジャー」と言って捕まえていったという。  

 約30分ほどの、話があった後、最後に与儀さんは、子供達に次のように投げかけ、話を終えた。

 なぜこんな地獄のようなことが起こったのでしょうか。 
  戦争だから仕方がない。そうでしょうか。それだけではありません。この戦争は誰が起こしたかを考えることが大切です。
  すぐ答えを出さなくてもいいですから。
  あれから60余年 沖縄は平和でしょうか。
 今でもアメリカ兵がいる。基地がある。
  戦争は、人間が起こすものです。一般の庶民起こすものでは有りません、起こす人がいるから。そうした人は誰でしょうか。
  是非勉強してください。 誰が戦争を起こしたのか。私たちはどうすればいいのか。 平和を祈ります。それも大事です。でも多くの人が祈りました。でも戦争起こりました。祈りだけには限界があります。
  どうすればいいか。これを考えながら勉強を続けてください。

 最後に 合図があるまで、電灯を消して、『真っ暗しん』にしてください。
  ここに潜んでいた人は、どうゆう気持ちだったのか。
  本土では、本土決戦の準備をしていた。そのために沖縄は犠牲になりました・・・

 ハイ、では電灯を点けていいです。

  子供の目線にたって、結論を押しつけるのでない、もと先生らしい実に納得できる話だった。  

 もと来たところを引き返し地上に出た。
 「平和の光が注ぐ」というまさにそんな感じだった。
 両角議員が、壷の破片を手にしていた。 写真をご覧ください。

   


 間違いなく壕の中で使われていたものだろう。
  私にとっても実に貴重な体験となった。  

 沖縄戦の本質は、何だったのか。

 午前中に訪問した平和祈念資料館の中に、次のような展示がある。
  実は、これを作った作者は、出来上がったものに対して強く抗議したという。
  作者は、銃剣の矛先を子供の口をふさぐ母子に向ける設計で作ったそうだ。

    

  ところがどうだろう。 出来上がってきたものは銃剣は水平に構えられている。
  皆さんもごらんになっての通り、この展示では、「沖縄人を守っていた日本兵」というまったく逆の構図となってしまう。
  それでも、展示は現在もこのように行われている。

 教科書も同じだが、歴史を書き換えてはならないと改めて思う実に象徴的なものだ。

 続く)

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8月23日(木)  

  「集団自決」という用語について 
  

 今回の視察のテーマの一つは、これまでもお伝えしたように「集団自決」。  
  この表現についても、又沖縄戦の本質との関係で検討が必要であり、「論争」にもなっていることがわかった。  

 沖縄の教科書問題の関係者の間では、「集団自決」の本質は、決して自決ではないということでほぼ一致しているという。  
 
  今日は、夕方6時まで、現地査察をした後、夕食は後回しにして、7時から関係者の方と話し合いがセットされていた。この話し合いの中で、用語論争が本質ではないが、正しくは「強制集団死」であり、本質は、自国の軍隊が自国の国民を虐殺したところにあるというところまで到達していることがわかった。  
  そして、カッコつきで、「集団自決」という表現を使う意味は、あのいわゆる島々で起こった「集団自決」という意味合いで使っているという。  

 実は、平和祈念資料館での展示を見た際、写真の説明には、「集団自決」と書かれているが、展示本体には、「日本軍の強制による集団死」とか、「集団死」と書いていることに気がついた。  
  英語の展示には、

 Compelled by the Japanese army, many people took their own lives.

  となっていた。  
  私の英語力では、took their own lives は、「自決」と解釈できるので、日本語では、「集団死」となっているが、英語はまだ正しい表現となっていないのかと思えたが、どうだろうか。  

 もっとも、Compelled by the Japanese army があるから、これでもいいのかと思ったりもした。

 「ひめゆりの塔」でも、感じたことだが、「正しい戦争の中での美談」にする必要がある中で、靖国派が「自決」を使うのはともかく、われわれにはふさわしくないことは解る。
 殺され方の内容から見て、「集団強制虐殺死」でもいいのではないかと思う。

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8月22日(水)  その3 

  平和への願い「忘れないで欲しい 島の集団自決」 
  

 「忠魂碑」に向かった。  
  車では、現場まで接近できず、途中で下りて道なき道を歩いて現場についた。

 この忠魂碑は、裏側に「紀元二千六百年記念」とかかれているように 昭和15年に日本国家の紀元2600年を記念して作られ、日露戦争以後、戦争で殉死した英霊を祀るために建立された碑で、靖国神社に直結する斎場でもある。
  満州事変での4人の戦死者を祀ってあるという。
  そしてこの「忠魂碑」が、宮城初枝氏が、自らの手記『悲劇の座間味島』の中で、当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長が、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」と伝えたという場所だ。

  

 写真でわかるように、鳥居が見える。
  この鳥居は、沖縄での皇民化政策の象徴だ。 後でも触れることになるが、国体維持のための捨石といえる沖縄戦の本質との関係で言うと、私には沖縄も侵略戦争先の植民地とまったく同じ扱い、同じことが行われたのではと思えるものだ。
  写真で見るとこの忠魂碑には、爆撃の跡が見える。

 この忠魂碑に関しては、以下の新聞記事が参考になる。

  沖縄タイムス   琉球朝日放送   琉球新報   しんぶん赤旗

 慶良間海洋文化館に向かった。
  ここは、私設の博物館で、いわば座間味村の民俗資料館という感じだ。
  館長さんは、記憶に間違いがなければ、船舶の設計に携っていたとのことで、 その2)でお伝えした「マルレ」の復元が展示されていた。  
  その写真は、ここをクリック 

 又、平和への願い 「忘れないで欲しい 島の集団自決」 というメッセージが貼ってある。

  
 
  全文は、ここをクリック  

 館長さんは、国なり行政の責任でこうした村の歴史、資料を展示保存すべきだと語っていた。
 又、別なことだが、「この島の住民の半分は、国民健康保険料が払えないでいる。病気になっても、どんなに苦しくても我慢している。払えないような制度がおかしい。」とも語っていた。
  真偽の程は確認が必要だが、心配の中身だ。  

 5時に、阿嘉島経由の高速船に乗って泊港には6時過ぎに帰ってきた。
  昼食をとった渡嘉敷阿波連港にあった「シーフレンド」という店の食堂には、今日見た場所以外にもいわゆる戦跡といわれるものがほかにも数多くあることがわかる掲示があった。  
  これは、店のオーナーが独自に調査して作成したもので、いずれ取り寄せ、公開できればと思います。

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8月22日(水)  その2 

  座間味村 訪問 
  

 座間味島へは、渡嘉敷島西側の阿波連港からチャーター船で渡ることになっていた。
  渡嘉敷島はマリンスポーツのメッカ。
  ホテルから泊港までタクシーで向かったとき、「泳がないんですか。」とタクシーの運転手さんから言われた。  
  確かに阿波連ビーチは、「バスクリン」を流したようなマリンブルーそのもの。  
  実は、この「バスクリン」の話は、副村長さんが話してくれたもの。
  都会の子供たちから何でこんなにきれいなんですか? と訊かれての「回答」で、一瞬信じられてしまったとのこと。

  この阿波連ビーチの山側に、「マルレ」と呼ばれる特攻艇を隠した壕がある。
  この特攻艇秘匿壕については、写真を見ていただければわかる。

  

  


  当時もこのビーチのマリンブルーは、今の輝きと変わらなかったはずだ。

  

 昼食を済ませ、チャーター船で座間味村に向かった。
  途中、「船長」のはからいで、船を止め珊瑚の海底を覗いたり、通常ならば、離島のビーチにお客を運ぶのがこの船の役割ということで、少し遠回りした。
  白い砂浜に映えるカラフルなビーチパラソルと波と戯れる人々の姿は、今度は観光で訪れようと思うに十分だった。

 さて、座間味港に向かう中で、大きな建物が確認できた。  
  一見してホテルかなと思ったが、実はごみ処理施設とのこと。
  後で説明を受けてわかったことだが、溶融炉だった。  
  しかもこの溶融炉、規模が大きすぎて火を入れるのは、年間でわずか2回、それも各々1週間程度とのこと。  
  又、村内5地区には、全て下水道が完備されている。
  座間味村は、座間味島、阿嘉島、慶留間島の3島あわせて総面積は16.87平方キロ人口は、1048人とのこと。
 「エコロジーアイランドの挑戦」とパンフレットに書かれていたが、今回の視察項目ではなかったので、財政状況は質問しなかった。

 沖縄県庁から派遣されている村役場の政策調整監の方から村の概要のお話を伺った後、早速現地視察に出た。

 自分も、実は「集団自決」の「体験者」です。

 高月山に登る途中、「村長、助役、収入役以下59名集団自決之地」碑の前で、運転と案内をしてくださった議会事務局長さんは、次のような話をしてくださった。

 父親が手を下して、弟は出血多量でなくなった。母親は、壕から出されて米軍に病院に運ばれて助けられた。 その話は、つい最近まで知らなかった。 母親の証言は、平和資料館から資料を最近もらって、初めて知った。 これまで母親は戦争の話はぜんぜんしなかった。 その証言は、村史には記載されず、最近知った。 村史作るまでは、母親は話さなかった。 ここ10年ぐらい前から語り始めた。

   とのこと。

 村史は15年前に発行されたが、その後新たな書物の準備がされているという。  

 「平和之塔」を案内してもらった後、村に唯一ある座間味ダムサイトに案内してもらった。  
  実は、このダムサイトは、ちょうど「村長、助役、収入役以下59名集団自決之地」碑の下にあり、さっきは上からなので見ることが出来なかった全員が「集団自決」した「産業組合壕」を見上げる位置にあたった。  

        

    

 (写真の中央の赤い屋根の建物上に道路があるが、その道路との間の崖の部分が、壕に当たる。)

  「母は場所を教えなかったが、このあたりだといっていた。」
 
とのことだった。

 以下続く)

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8月22日(水) 

  渡嘉敷島 訪問 
  

 那覇泊港を9時に、「マリンライナーとかしき」で出発、約40分かけて渡嘉敷島に着いた。  
  島に渡るには、この高速船の「マリンライナーとかしき」ともうひとつ「フェリーけらま」がある。  
  いずれも、村の特別会計で行っている事業だが、台風が来れば、少なくとも3日間連続しては欠航となり、赤字会計とのこと。  

 港には、副村長、副議長、事務局の方と3人の方からのお出迎えしていただいた。

 役場について、講堂のようなところで説明をしてもらった。

 副村長の松本さんは、開口一番次のようにお話された。
  「集団自決について 証言をということですが、この島の方は、もう触れたくないというのが実際です。  私自身も現場にいなかったので、当時のことは村史で知る限りしかお話できませんが、真実を後世に残すためにも、こうした内容をわかっていただきたいと思います。」

  以下お話された順に続く   注:(副議長)以外は全て副村長さんのお話です。

 「自決の方の人数は328人。今でも「白玉の塔」碑の刻銘にもれた方が出てくる。今年も8名の方が新たに刻まれた。  終戦時には、港までグランドみたいな焼け野原の状況。何もなく役場にあった戸籍も焼き尽くされてしまった。  『昭和20年3月28日渡嘉敷島で戦死』としか書かれていない。」
  「歴史教科書問題で言うと、この島でも『軍命』があったとか、なかったとか賛否が分かれているので、いろんな見方がある。  ですから私どもがどうだと言うことは申し上げることは出来ない。ご理解いただきたい。」
 「沖縄県議会の方には、証言したが・・、その方も『もう最後だよ。』と嫌う。もう話したくない 思い出したくないということ  今、80歳前後の方々、特にオバーちゃんたちは何も言わない。皆さんが尋ねていっても話さないと思います。親を失ったとか、兄弟を失ったとか 子供を失ったとか そうゆう方々ですので つらいでしょうね」
 「語りたくないんじゃなくて、思い出したくないが本音」(副議長)
 「皆さんの前では、何も言わないでしょうが、私たちには食って掛かる状況。だれが名前を教えたのか。何で連れてきたのか。と私たちは怒られる。」
 「教科書問題が、国際問題にも発展するということで語らなくなった。」(副議長)
  「当時の現場に居られた方々でも、今ではなくなった方も多い。 戦後62年。ですから体験者の数も少なくなっている。」    
  「碑は、青少年交流の家の場所に、当時は米軍基地を作るために 立ち入りできないために現在の場所に移動した。」
  「軍がかかわった、一部では『軍命』があったという人もいるが、意見は分かれている。 村史を見てでしか判断できない。自分たちでは申し上げられない。」
 「『軍命』があったかなかったかは別にして、事実は事実として 現場で起こったことは事実ですから そういうことは、教科書からは削除してはもらいたくない。歴史認識としては、事実を伝えてもらいたい。」
 「それによって集団自決まで追い込まれたのは事実ですから、『軍命』があろうがなかろうが戦争の責任は取るべきだと私は考える。」(副議長)
  「いま、副議長が言われるように、あるないは別にしても、事実ですから 当時の教育が鬼畜米英の時代ですから、そうした教育、それは全て国の責任ではないかと思います。」

 私の方から、「村史の中に明文化されたものはあるのですか。」とお聞きしたが、
  「細かくは書いてないですが、いついつ米軍が上陸して、当時北山(にしやま)と呼んでいましたが、北山のほうで集団自決があった。翌日に米軍のニューヨークタイムス記者が取り上げてとなっている。」  

 この後、早速「集団自決」の場所へ案内してもらった。  

 その場所は、まさに青少年交流の家の敷地内にあった。  
  国立沖縄青少年交流の家 の地図は、ここをクリック   
  地図内に場所が示されています。(名称は最近変わったようです。)
   18番が「集団自決跡地」碑の場所です。

 現場は、「集団自決跡地」碑の裏側を下る雑木林の中にあった。

   

 
  背の部分を下りていくと、左右両側に水の流れる音がする谷の部分があり、そこが現場となったという。

  「当時は、こんなにも木は茂っていなかった。木を切ってマキに使っていた。この一帯の場所が現場です。 生存者の方は、ここに来ると、あちこちで、悲鳴があがったことを思い出すといいます。」
  「われわれはこのようにこの場所に来るが、そうした方はここには来ない。碑の場所で『入っていって見て来い』というだけ」(副議長)
  「水が真っ赤に染まって、それを飲んだ。爆弾でも死ねなかった人、 一家全滅の人、手りゅう弾 爆発しなかったのでもらっていってよその家庭で爆発したなど、生き残ったら非国民、恥だというのがあった。教育ですよ。教育。」 
  と副村長さんは盛んに強調していた。  

 この国立沖縄青少年交流の家は、昭和47年に米軍は引き上げたその記念に整備された国の施設だが、今日も高校生が野球の合宿を行い、別な芝生のグランドでは、子供たちがビブスを着てサッカーの練習試合が行われていた。
  使用料は無料 一泊2000円ほどで 利用できるという。  

 そうした施設の一角にこの場所はあった。  

 続く)

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8月21日(火)

 沖縄視察 1日目   その1)
    朝3時半過ぎに松本市を出発、高速バスでセントレアに到着したのは7時前。朝食を済ました後、9時前にフライト。那覇空港に11時すぎに到着した。
 早お昼を済ました後、国際線の見学デッキに向かい昨日事故があった中華航空機を確認。
 例えは悪いが、「焼いたししゃも」が横たわっているという感じだった。
 マスコミ関係者も6台のカメラを構えて放送、現地レポートを送る姿も確認できた。
 視察の日程が1日は早ければ、着陸できなかったかもしれない状況が良くわかる。


  


 さて、地元沖縄の平和委員会の方と午後1時に合流、早速ジャンボタクシーに乗って、今回の視察が始まった。
 今日の予定は、沖縄戦の爪あとと基地めぐり。
 普天間基地、嘉手納基地、キャンプ瑞慶覧(ズケラン)などを見て回った。

 ご承知の通り、この基地を返還する代わりに辺野古沖に新たに米軍基地が建設されるというこの普天間基地。
 解説をしていただいた与儀さんは、私たちを普天間基地の全貌が見える嘉数(かかず)高台公園に案内してくれた。

  嘉数高台公園に関しては、宜野湾市のHPのここをクリック

 この公園は、沖縄戦で日米両軍が攻防を繰り返した激戦地であり、ここで亡くなった多くの犠牲者を追悼するための慰霊の塔がいくつか建てられている場所だ。
 ここには、地球儀をかたどった展望台が設けられ、一般にはあまり知られていないが、宜野湾市が「地球環境を守るため」予算付けし設置した普天間基地の監視カメラも確認できる。
 (宜野湾市のHPでは、このカメラは確認できない。)
 

   

   (写真左が展望台。その上部の拡大部分が右の写真です。左右ともカメラが確認できます。)

 米軍の爆撃で鉄筋がむき出しになっている日本軍が使用した「トーチカ」(コンクリートで固められた銃眼施設)が保存されていたが、沖縄戦の目的である持久戦のため、最後の最後まで一刻でも本土への上陸を遅らせるため、多くの犠牲が払われたことの象徴的な施設だ。
 上陸した米軍に対して、総攻撃をかける作戦も誤って取られたようだが、一方で松代に大本営を建設するために、この高台周辺での持久戦で、約50日の時間稼ぎを行わせたという。

以下続く)

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8月20日(月)

 鉄の爆風
    沖縄タイムス社編の「沖縄戦記 鉄の爆風」が手元に届いた。
 インターネット販売で注文したもので、当初の予定と違って、業者が配慮してくれて、 明日からの視察に間に合うように送ってくれた。
 初めて目にする本だが、かなりボリュームがある。
 初版が1950年の8月15日、これは、95年の2月15日に発行された10版2刷ものだ。
 現在、大江健三郎氏が被告となっての行われている裁判の中でも注目されている本。

 明日は、朝3時に松本を発って、那覇に向かう予定だ。
 今回は、「集団自決」問題を重要テーマのひとつに、慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島を中心に訪問する予定だ。
 一日早ければ、中華航空の爆発炎上事故に巻き込まれるところだったが、どうやら天気もよく沖縄戦の歴史をたどる旅が出来そうだ。
 渡嘉敷、座間味両島の住民の方からの証言は難しいとのことだが、現地の平和委員会と沖縄県委員会の方のご協力をいただいて、本土在住の方からお話を聞けるようになっている。
 台風が心配されたが、どうやらこちらも大丈夫そうだ。
 出来れば、毎日現地から朝早くのいつものレポートも含めて、報告を掲載します。


 お楽しみにしてください。

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8月16日(木) 

  終戦の日 「戦後」の意味を問い直そう 
  

 昨日付け信濃毎日新聞の社説のタイトルだ。
  全文は、ここをクリック

 丸山真男氏が引用されていることに少しく抵抗を覚えないことはないが、参議院選挙結果を受けて、今年の終戦の日に実にふさわしい時宜にかなった主張となっている。

 そして、もう一つ8月6日付けの宇沢弘文氏の「『改革』への明確な拒否」も注目の内容だ。  
  宇沢弘文氏といえば、田中知事の「コモンズ」の理論的背景として有名だが、小泉構造改革以来の「市場原理主義」の導入に対する明確な拒否が今回の選挙の結果と喝破するといえる中身だろう。
  全文は、ここをクリック

 マスコミのこうした点では、共通するものを感じる。 時代の流れといえる。  関連して、志位和夫委員長の85周年記念講演を是非ごらんください。

  ここをクリック     

 お盆を前後していくつかの整理が出来た。

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8月17日(金) 

  検討されている「放課後児童健全育成事業運営基準」について 
  

 松本市放課後児童健全育成事業運営基準の原案が発表され、8月2日の第2回「放課後子どもプラン運営委員会」で、議論されたようだ。  
  会議録がないので、関係者の話と(案)を見る限りの範囲だが、評価できる点と問題点をいくつか確認できる。

 発表された「松本市放課後児童健全育成事業運営基準(案)」は、ここをクリック  

 まず、何よりもこの運営委員会の発言は、録音するなりして会議録を作成し公表すべきものと考える。  

 具体的に気がつく点を順序不同で言うと、保護者会の設置を正式に確認した点は評価できる。  
  しかし、運営委員会と保護者会の二つを設置するわけだが、この2つの「会」の関係をどうするのか、役割分担などがはっきりしない。  
  また、「児童館を実施場所している場合は、児童館の地域活動クラブを保護者会とする。」と、これまでの「母親クラブ」で代行しようとしているが、これははっきりと区別して保護者会を設置すべきだ。  

 職員の配置基準だが、これで十分な「保育」が出来るか、関係からの意見も聞きながら検討が必要だ。  

  5・6年生問題では、この「基準」では対象児童を「1年生から4年生」に限定している。 明らかにこれまでの住民のみなさんとの話し合いの経過や議会での議論の経過を無視するものとなっている。  
  市が行ったアンケートの結果でも、7割を超える保護者が、「5・6年生を対象に」と望んでいる点からしても、少なくても、「概ね1年生から4年生」とすべきだ。  

 そして、関係者からの話では、この「基準」の対象は、「市が運営(委託を含む)する放課後児童健全育成事業全てとする。」となっているが、具体的な対象施設として、「既存の学童クラブは対象としない。」と市は回答したという。  
  これは、明らかにおかしい。
  そもそも、「放課後児童健全育成事業全て」には、既存の学童クラブ(学童保育)も含まれているはずだ。  
  もっと言えば、既存の学童クラブこそ、松本市の放課後児童県税育成事業の重要な一翼を担ってきていることは、歴史的にも実践的にも誰が見ても明らかだ。  
  そもそも、児童福祉法第6条の2第2項(注)に定める「授業の終了後に児童厚生施設等の施設を利用して適切な遊び及び生活の場を与えて、その健全な育成を図る事業」の中での、「生活の場」の実現との関係で、松本市での「学童保育」の歴史がある。  
  そして、その「生活の場」の実現との関係で、松本市オリジナルの放課後児童クラブ事業が始まったはずだ。  
  仮に、既存の学童クラブは、「別の基準でかまわない。」ということは、善意に捉えれば、「既存の学童クラブの実践を縛るものではない」というようにも取れるが、こうしたダブルスタンダードをここに来て認めることは、新しい松本市の放課後児童クラブ事業を挫折させることになってしまう。
 現在、センターで行われている事業を追認する形での「基準」作りに留まってはならない。  
  改めて、この「新しい松本市の放課後児童クラブ事業」発足の原点にたっての発展的な取り組みをあきらめないことが肝要だ。  

 私自身もいくつか検討と関係者の皆さんとの議論を必要とする。

 年内で、この基準を作ろうということだが、この「魂」の部分の議論は、必要ならば十分な時間をかけるべきだ。  

 3回目の運営委員会は、今月末8月31日(金)午前10時から開かれる。

  注) 児童福祉法第6条の2 第2項 :この法律で、児童自立生活援助事業とは、第27条第7項の措置に係る者につき同項に規定する住居において同項に規定する日常生活上の援助及び生活指導並びに就業の支援を行い、あわせて同項の措置を解除された者につき相談その他の援助を行う事業をいう。



 

  

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8月15日(水) 

  第12回 松本市平和祈念式典 に参加して 
  

 午前10時から、県の森公園で松本市平和祈念式典が行われた。  
  おりしも、参議院選挙で、安倍首相が「戦後レジームからの脱却」をスローガンにして、過去の侵略戦争に無反省のまま、憲法改定を最優先課題として国民に押し付けようとしたことに対して、多くの国民の「ノー」の審判が下った中での今年の平和祈念式典。
  去る6日に行われた広島平和記念式典で、秋葉忠利広島市長は、安倍首相を前に、「平和宣言」の中で次のように述べた。

 「唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。」

 「平和宣言」全文は、ここをクリック  

 広島市のこれまでの「平和宣言」は広島市のHPでさかのぼって見ることが出来る。  
  これまでも憲法についての言及は、この10年間でも、2回を除いて毎年行われてきた。 そして、今年は日本政府に対して、平和憲法を「あるがままに遵守する」ことを求めているのは、今回が初めてだ。
  実に時宜を得た政治的で的確な言葉だ。  

 広島市の過去の平和宣言については、ここをクリック    

 悲惨な過去、戦争を繰り返さないための方策は、平和憲法とりわけ「前文」と「9条」に記されている。  
  そして、その平和憲法の精神は、広島の子どもたちの「平和への誓い」の中にも表現されている。
  子どもたち代表は次のように述べている。

  「平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。」  

 広島市子ども代表による「平和への誓い」の全文は、ここをクリック  

 今日、松本市の梓川中学生の2人の代表は、「平和へのメッセージ」の中で、次のように述べた。

 「(平和実現に向けての)具体的な方法が、今、私たちには明らかではありません。だから、この地で、過去の歴史をたどり、戦争の真実に目を向け、平和とは何なのかを学び、考えを深めることから始めたいと思います。」

 「平和へのメッセージ」の全文は、ここをクリック  

 そして、菅谷昭松本市長は、

  「核兵器の悲惨さを世界中のどの国よりも認識するわが国は、絶えず核廃絶と平和の尊さを発信し続けていかなければならないということであり、まさに被爆国日本の宿命とも言うべき責任であるということであります。」
  「行方定まらぬ危うき流れに立ち向かい、過去を謙虚にふりかえり戦争の悲惨さとそこに幾多の尊い犠牲があったことを次の世代に語り継ぎ、しっかりと未来を見つめて参らねばなりません。」
  「市制施行100年、この時代の節目に、私たちの歩みの証として、次代を担う子どもたちに確かな平和の足跡を残し、そこに安んずることなく世界恒久平和確立のために平和の糸を紡いで参る所存でございます。 この平和祈念式典をはじめとする平和を願う市民一人一人の行動が、世界の恒久平和と核兵器廃絶の実現に向けて、大きな力となるものと確信しております。」  

 菅谷市長の式辞の全文は、ここをクリック  

 安倍首相の「戦後レジームからの脱却」は、平和の問題だけにとどまらないが、世界的にも「ノー」の審判が下った「靖国派」の動きに対して、さすがに一人の例外を除いて安倍首相も含めて閣僚の終戦の日の靖国参拝は行われなかった。  
  しかし、こうした世論に対しても、安倍氏の「KY」状況は変わっていない。

 大きく政治は動いている。  
  政治家は、そのときの時宜にかなっての発言をしてこそ初めて政治家といえる。



 

  

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8月12日(日) 

  参議院選挙結果の三つの特徴 
  

 日本共産党創立85周年記念講演会が、9日、東京・渋谷C.C.Lemonホールで行われた。
  昨年来、今年は、重要な二つの選挙をたたかう年として位置づけてきたが、参議院選挙の結果を受けて、不破哲三前議長は、選挙結果の三つの特徴を次のように明らかにして講演を行った。

  (参議院選挙の)開票の翌日、常任幹部会は声明を出しましたが、このなかには、短いことばで、選挙結果の三つの特徴を浮きぼりにしました。  
  第一は、今回の自民党敗退という結果は、個々のミスだけに原因があるのではなく、「有権者が、自民・公明の枠組みでは日本の前途はない、と判断した結果」であることを、きっちり示したことであります。  実際、選挙後の安倍内閣の動きと自民党の動き全体が、国民との亀裂をさらに拡大しています。もともと安倍首相という人は、選挙の「顔」として最適だということで、昨年九月に担ぎ出された首相であります。選挙の結果、これは自分たちの見込み違いだったということがはっきりしたが、今度は代わるべき「顔」がないから、やむを得ず首相続投を認める。ここには、自民党の衰退が、絵に描いたように現れているではありませんか。  
  第二に、自民・公明に代わる新しい政治とはなにかという問題について、この選挙で国民の選択が明らかになったかというと、そうではないということを、率直に指摘しました。これもいまでは、内外のどのマスコミでも一致して指摘されている点であります。  
  第三に、常幹声明はそこから、今後の政治の見通しをはっきり打ち出しました。 自民・公明の政治に代わる新しい政治の方向と中身を探求する新しい時代が始まった、国会論戦でも、今後の国政選挙でも、そのことの比重がより大きくなるだろう、こういう見通しを予告的に明らかにしたことであります。  
  この三つの点に常幹声明の核心があります。

  「日本共産党史85年と党発展の現段階」 
     不破哲三前議長の講演(大要全文)は、ここをクリック  

 又、選挙後に出された「常任幹部会声明」は、ここをクリック

 さらに、この講演の中では、次のような行がある。

 もう一つ強調したいのは、いま求められている「新しい政治」の中身を国民の間で語る仕事は、党中央だけの仕事ではない、ということであります。
  選挙戦のなかでは、すべての党員、すべての後援会員が、このことを大いに語ったではありませんか。
  「国民的探求のプロセス」とは、まさに、国民の要求に応えながら、選挙中にやったこの活動を日常不断に続けることではないでしょうか。
  すべての党支部、すべての後援会が、綱領を手に、国民の声に応える「新しい政治」とは何か、そのことを草の根で語る全国的なネットワークをみんなの手でつくろうではありませんか。

   (少し長いですが、是非全文をご覧ください。)

  いよいよ、来年は、市長選挙が行われる。



 

  

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8月11日(土) 

  「建築物の高さ制限の基本的な考え方」が発表される 
  

 第3回 松本市景観基本計画策定市民会議 が、昨日開催され、本日のマスコミに、「建物高さ規制 市内全域 10階以下に」という形で報道された。  
  大手3丁目に、広島の業者(株)マリモ が、地上15F建て(高さ45.6m)の高層マンションの建設計画に対して、議会に対しても「建設反対」、「高さ規制を」という陳情が寄せられている中での発表だ。  

 第3回の松本市景観基本計画策定市民会議に出された協議事項は、次の中身だ。  

 建築物の高さ制限について(高さ制限の基本的な考え方)は、ここをクリック

 高層建築物に関しては、松本市は「松本市中高層建築物の建築に係る良好な近隣関係の保持に関する条例」の制定をはじめ、いくつかの取組を行ってきた。  

 建築基準法の範囲内では、法律的に問題がなければ、後は業者と周辺の住民との話し合いが基本となるが、建設業者が地元業者でない場合のほとんどは、建設が強行されるというのがこれまでの例だ。  
  住民自治という点では、地方自治体の役割が実に重要となる中で、いよいよ、本格的な高さ規制の条例制定に向けて松本市は動き出したといえる。  

 そういえば、前回の市長選挙の際、会場近くに高層マンション建設計画が進行中の懇談会の席で、当時の菅谷昭氏が、参加者からの質問に対して、「あまり高いものは制限できるようにする必要がありますね。」と語っていたことを思い出す。

 詳細は続報します。

 

  
 

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8月9日(木) 

  渡嘉敷島と座間味島 
  

 手元に3つの本が届いた。

 大江健三郎: 沖縄ノート
 曽野 綾子: 沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!
 宮城 晴美: 母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言

 沖縄県 渡嘉敷島と座間味島は、「集団自決」があった島として歴史に刻まれている。
  そして、参議院選挙中に、日本軍の「集団自決」への関与を示す記述を削除させた文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める意見書が一会期に二度あげるという異例の形で行われた。  

  選挙が終わってからと考えていたが、調査してみると、この集団自決をめぐっても「靖国派」が「自決命令はなかった」と言う立場で、蠢いていることが良くわかる。    
  座間味島は、海上特攻部隊の秘密基地の歴史も持っている。  
  裁判も行われ、沖縄の戦争史の再認識が必要だ。  

 議員団でも議論し、可能であれば、調査する方向を確認した。

 

  
 

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8月7日(火) 

  頑張り甲斐があった結果 
  

 午前中に続いて夜、参議院選挙の結果について意見交換する会議が行われた。

  「結果は、残念だったが、地域の皆さんから『良くがんばったね』と言われた。頑張り甲斐のあった選挙だった。」
  「有権者は、与野党逆転した結果を喜んでいる。私たちにとっては残念な結果だったが、有権者の立場で結果を捉えることが重要だ。」
  「残念な結果だったが、少しは希望を持っても良いのかなという感じだ。」  

 ほぼ共通して支持者の皆さんに励まされて結果を前向きに捉えて引き続き頑張ろうという結論だ。  

 議席での結果だけ見れば、民主党の独り勝ち。新党日本の1議席以外は、勝ったのは民主党だけ。  
  でも、得票数で見ると前回(04年)比で伸ばしている中に、共産党も入る。     

        04年           今回
 自民  1679万7687   1654万4696
 公明   862万1265    776万5324
 民主  2113万7458   2325万6242
 社民   299万0665    263万4716
 共産   436万2574    440万7937

 民主、共産は増え、自民、公明、社民はいずれも得票数を減らしている。

 今回の選挙結果は、自民・公明政権への審判が下ったことを示しているのはここに明確だ。
  そして、民主とともに共産党も選択肢に入り、社民は選んでもらえなかったと見るのが自然だ。
  この間の経年での得票結果を確認したわけではないが、「常勝」を誇っていた公明党が「拒否された」のは、今回初めてだ。
  そして、自民党が第2党に転落したのも初めて。
  これが、今回の選挙結果で、今までの中では初めての段階に入ったといえる。

 実際、
  「自民党とともに、公明党を負かしたことが本当にうれしい。『増税戦犯』として宣伝してきた池田さんたちの貢献が大きい。」  
  高齢の婦人の方が、腰を曲げて、小さな声で耳打ちしてきたことに象徴的だった。
  私は、さらに腰を下ろして、その喜びの声のささやきを聞いた。
  又、商店街のもと役員の方が、
  「もう自民党には入れられない。今回は国民新党に入れようかと思っている。」と話しかれられ、私の方で、「国民新党も郵政民営化のことで袂を分かっただけで、自民党に変わりないんではないですか。」というと、安心したように、「じゃ、今度は初めて共産党と書くことにする。」と言ってくれたことにも現れている。  

 長野県の場合は特に、もう一つの選択肢として新党日本があったことは事実だ。  
  そして、これまでの共産支持者の中で、民主と新党日本に投票した人がいる以上、今回の選挙では、そうした減票を上回って共産党を選んでくれた有権者が多いことは今後の前進につながる土台となる。  

 昨年来、今年は春の一斉地方選挙、そして参議院選挙と一連の選挙として取り組んできたが、街頭宣伝へ集まってもらった方の数、ポスターの張り出しで「第一党」になれたことなど、いずれもレコードを記録しただけの結果は出ているものと確信する。  

 改めて、ご支援ご支持いただいた皆さんに感謝申し上げます。

 

  
 

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8月3日(金) 

  小樽築港駅周辺「超大型開発事業」 
  

 財政再建といえば、「財政再建団体」として夕張市の問題がクローズアップされているが、帰ってきていろいろな文献を調べて見ると小樽市も例外でないことがわかる。  
 
  「財政健全化の取り組みについて」が小樽市の視察項目だったが、恒例の「市内視察」でも行かなかった「築港エリア」といわれる地域の55ヘクタールの及ぶ超大型再開発プロジェクトが、出された資料での3年連続の「赤字決算」の原因であることがわかった。  

 「ウォーターフロントの特性を生かした商業レクリエーション機能を主体として複合機能の進展を図る」として進められた「小樽築港駅周辺地区整備事業」は、国鉄函館本線の貨物駅廃止に伴って処分用地となったJRの土地22ヘクタールを中心に全体で55ヘクタールを再開発する計画で、総事業費は不明だが、マイカルの子会社の「小樽ベイシティ開発」が中心となって、当時の市長とともに進められたもの。
     「小樽築港駅周辺再開発事業」に関しては、ここをクリック
 
  1998年に商業アミューズメント施設として「マイカル小樽」、ホテル「ヒルトン小樽」がオープンした。  
  石原裕次郎記念館は、1991年にオープンしているが、その2年後にこの計画は始まったという。

 この開発の結果、観光客はいったん格段に増えたが、1998年といえば、すでにバブルがはじけていた時期で、その後すぐに、「マイカル小樽」も「小樽ベイシティ開発」も倒産したという。  

 選挙のため事前の調査と問題意識を持たずに訪れたことを実に反省させられる残念な現地視察となってしまった。

 なぜ、小樽市が財政健全化計画を策定し、実施に移さざるを得ないのか。
  主な財政指標で北海道内の主要都市10市比較で、小樽市が、経常収支比率、起債制限比率、実質公債費比率の3つでいずれも悪いほうのトップ、財政力指数では、下から3番目と「行政視察資料」に書かれていたが、その原因らしきことに関して、説明した財政部主幹の方は、「60年代に実施した公共事業の結果・・・」と話していた。
  はじめは、それが「小樽運河」の整備事業の結果と考えたが、それにしては、市債残高のピークが、一般会計で平成14年となっていることや残高の額が多すぎる事には、疑問があった。
  松本市の場合から見ても、小樽運河整備事業が行われた時期からして、ピークがつい最近とは考えられない中身だったからだ。
  案の定というのが、実感だった。
  見に行かなかった石原裕次郎記念館のある「築港エリア」の再開発事業が、現在の小樽市の現状の原因であり、「石炭から観光へ」という開発計画から見ると夕張市と共通するものであることがわかった。

 詳細な調査が必要だ。
  機会があったら、現地視察をしてみたい。

 夕張市も同様だが、財政危機回避を理由に、受益者負担の導入で、ふれあいパス(高齢者の市内無料バス)の有料化、保育料の引き上げ、家庭ごみの有料化などが進められるようだが、安心して住める都市とは逆行することになる。  

 今日は、空港から急いで市役所に向かい、日曜版の配達をした。

 

  
 

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8月2日(木) 

  2度目の小林多喜二文学碑 訪問 
  

 昨日から、3日間の予定で総務委員会の視察で北海道に来ている。  
 信州まつもと空港を昨日午後2時35分に出発、小樽市と千歳市に松本・札幌線利用促進の要望活動を兼ねた視察。  

 小樽市は、財政改革プランが視察項目。
 午前9時からの視察を前に、朝4時半起きで、いつものように「市内視察」してきた。  
 小樽運河を端から端まで走った後、一路、旭展望台に向かった。  
 ホテルでもらったTown Map を見ても、はじめはどこにあるのか実に目立たないところにしか描かれていないが、小樽といえば、順番は別として、石川啄木、伊藤整、石原裕次郎、そして小林多喜二。  
  小樽市は2度目だが、そのときも旭展望台に行って来た。  
 
  旭展望台には、小林多喜二文学碑があるのだ。  

 小樽商科大学生が名づけたと言う事だが、途中の「地獄坂」は確かにきつい。  
  新聞配達をしている方に行き会ったが、歩いての配達。考えて見れば、自転車では配れないところだ。  
  そして、昨日から気になるのだが、烏が多い。 昨日駅前にもカラスがたくさんいたが、朝はごみ袋に群がっている。
  「地獄坂」に別れを告げ、山道に入ってからしばらくして記憶を呼び覚ます風景となった。
  樺太記念碑がある広場から、付きまとう蜂を避けて文学碑のある小高い丘に向かった。
  新しく文学碑の案内板と階段が整備されていた。
  上りきるとその文学碑が目に入ってきた。
  本郷新作の文学碑。本を開いた形のモニュメントだが、多喜二のレリーフは右上にある。  
  説明板には、宮本顕治、志賀直哉、伊藤整、手塚英孝 など各氏の名前が書かれている。  

 文学碑には、ご存知のように、北極星と北斗7星があるが、もう一つ十字のマークも刻まれている。これが何だったか帰って調査をしたいと思う。

 改めて見直した後、展望台の方へ向かった。  
  標高190mのところにある展望台、ほぼ小樽市を一望できる場所だが、展望写真が焦げていた。  
  後でわかったことだが、どうやら花火の火の仕業だ。
  一望した後、ホテルに向かおうとして下りかけたとき、リックを背負い、両手にごみ袋を抱えた方とすれ違った。  
  ご挨拶をして一旦は通りすぎたのだが、まだ時間があったので、引き返して再び展望台でお話をさせていただいた。  

 「定年後12年経った。」と語るその方は、ほぼ毎日ごみ袋を持って、この展望台に登ってくるという。  
  すでにその両手のごみ袋には、ペットボトルなどのごみが収められていたが、先ほどの展望写真が焦げていたときには、その下に捨てられた花火の残骸が沢山あったという。

 「小林多喜二は、私らが尊敬する人。しばらく放ってあったが、最近周辺の整備が行われた。階段は市でやってくれたが、案内板は、『お金がない。』ということで市ではやってくれず、ライオンズクラブがつい2週間前に作り、できたばかり。」
  と言っていた。
 「松本市といえば?」とお聞きすると、松本城ではなく、「医療費が安い」と即座に答えられた。
  確かに長野県は医療費が少ないことで有名だが、松本市の印象となっているとは思わなかった。  
  「今年は、市制100周年で、いろいろな行事が行われています。是非お出かけください。」とご案内して別れてきた。

 ホテルで朝食を終え、小樽市役所に向かい、松本・札幌線利用促進の要望を済ませた後、早速、財政健全化の取組についての説明を受けた。  
  財政状況の報告の冒頭に、18年度の決算見込みの収支報告の紹介があったが、実質収支で、12億3000万の赤字とのこと。
  資料には同様にH16年は、11億8000万、H17年度は、14億1000万の赤字の記載があった。    

 小樽と言えば、運河の保存、街づくり、そして観光で全国のいわば模範と言われていたのが今までの印象だったが、どうやら、『お金がない。』の意味がそこでわかった。  

 続きは、松本市帰ってから・・・

 

  
 

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