8月23日(木) その5 文化財として保存を図りながらの一般公開。 その懐中電灯で壁を照らしてみると、染み出した石灰水が、幕を作って鍾乳洞のような色になっている。 壕は、外から中からも直接見通せないように、クランク状に彫られ、出入り口は、毛布を2重3重に重ねて、光が漏れないようにした。
そして、その中で青酸カリのよる毒殺があったのだ。 又この20号ではないが、この丘の壕にいた男性の証言。 ところで、この20号の壕の近くに、この6月23日に除幕されたばかりの「憲法九条の碑」がある。 帰路についた際、足元に鉄の塊が地面に刺さっていた。 写真で、一番大きなものは、長さが、11センチに及ぶもの、そのほかにもいくつか採取できた。 |
8月23日(木) その4 「ひめゆり」学徒が、真っ先に動員され壕堀を行ったのもこの現場だという。 1990年に、町はこの壕群を「戦争遺跡」として全国で初めて文化財に指定。 われわれが、見学できたのは、「20号」跡。 以下続く) |
8月31日(金) 「長野県経済の構造変化と今後の展望〜人口減少社会の中で、地域が選ぶ戦略とは〜」 本日で、村井県政が発足して、ちょうど1年。振り返って見ると、まだ成果は現れていないが、この6年間で失われたものを確実に回復したといえる。
ところで、マスコミによれば、村井知事は今日の記者会見で、一年間の県政運営を振り返り、 いわば同日、同時進行的に、長野県経済の構造変化と今後の展望を村井県政との関係で語る講演会であることが前置きされたことになる。 県のHPによれば、現在この中期総合計画の策定作業が行われ、12月議会に提案されるということだが、どうやら今日の内容は、「策定の概要」として発表されているものに沿っていることがわかる。 さて、本題はパワーポイントで47ページに及ぶ内容で、傾聴に値するものは有るものの、 「景気が後戻りしない理由は?」は、3つの過剰(債務、雇用、設備)の解消と史上空前のリストラによる低成長下での利益を出し易い経営体質への変化をあげているが、要は、「格差景気」、「企業栄えて民滅ぶ」実態の中で、
「マーケティング力」や「マーケットの探索」の展開で、果たしてどれだけの企業と住民に恩恵があるのか、「ヌレンザとレクサス」の話は象徴的だ。
県の中期総合計画などの詳細な検討を行っていないので、即軽々に結論を語るのは控えるべきだが、住民福祉の向上、「住民が主人公」の地方政治のあり方との関係では、大いに関心を払いたいと思う。 「空白の6年間」とか、「がれきの山」論でなく、この6年間の県民の貴重な経験の上にたっての検討が必要と感じる。 「人口減少社会の中で地域が選ぶ戦略は、」どうあるべきか。 |
8月23日(木) その3 入り口を入って右側に、もんぺ姿の石像があるが、余り関心をよばないものだが、この姿こそ「ひめゆり」の象徴だと、案内の与儀さんは話してくれた。 与儀さんは、この壕を「第三外科壕」と呼ぶには抵抗があるという。 生存者の証言 によると 壕にいた100名のうち 女子学徒は40名。 「美しい最後を遂げたひめゆりの女学徒。」だけではない証言が、30年後に行われた。 「私達は、生かされています。」 これは、証言者の声で、そこから証言が始まったそうです。 「『ひめゆり』だけが女子学徒だけではない。」 (以下 続く。 今後は、少しずつ 日誌に挿入する形で、発信したいと思います。) |
8月23日(木) その2 「轟の壕」については、ここをクリック 写真は、ガマの入り口に下っていくときの写真だが、今回は佐賀県鹿島市の鹿島ドリームシップの皆さんといっしょに「体験」と「学習」した。
鍾乳洞の入り口から、少しずつ入るにつれて足場も悪く、天井も低くさらに「真っ暗しん」になる中、懐中電灯の光だけが頼りだ。
この間の雨で、地面の部分は、ぬれていたが、もともとこのガマの名の通り、この洞窟は、毎日大雨で、濁流が流れ、轟いていたという。
比較的広い場所に全員がそろった「真っ暗しん」の現地で、1日目も案内してくださった与儀さんが、テープレコーダーを回し、証言者の話を流してくれた。 その前に、「『まっくらしん』てわかりますか。」との与儀さんの質問に、子供達は、すぐに「真っ暗で、静かなこと。」と答えた。 その証言は、当時警察官の方で、家族(奥さん、0歳と3歳の子ども)とともにこのガマでのことを、2004年1月に語った内容だという。
沖縄戦のときは食べるものがなかったから、ほとんどの母親の母乳は出なかった。 約30分ほどの、話があった後、最後に与儀さんは、子供達に次のように投げかけ、話を終えた。 なぜこんな地獄のようなことが起こったのでしょうか。 最後に 合図があるまで、電灯を消して、『真っ暗しん』にしてください。 ハイ、では電灯を点けていいです。 子供の目線にたって、結論を押しつけるのでない、もと先生らしい実に納得できる話だった。 もと来たところを引き返し地上に出た。
沖縄戦の本質は、何だったのか。 午前中に訪問した平和祈念資料館の中に、次のような展示がある。 ところがどうだろう。 出来上がってきたものは銃剣は水平に構えられている。 教科書も同じだが、歴史を書き換えてはならないと改めて思う実に象徴的なものだ。 続く) |
8月23日(木) 沖縄の教科書問題の関係者の間では、「集団自決」の本質は、決して自決ではないということでほぼ一致しているという。
実は、平和祈念資料館での展示を見た際、写真の説明には、「集団自決」と書かれているが、展示本体には、「日本軍の強制による集団死」とか、「集団死」と書いていることに気がついた。
Compelled by the Japanese army, many people took their own lives. となっていた。 もっとも、Compelled by the Japanese army があるから、これでもいいのかと思ったりもした。 「ひめゆりの塔」でも、感じたことだが、「正しい戦争の中での美談」にする必要がある中で、靖国派が「自決」を使うのはともかく、われわれにはふさわしくないことは解る。 |
8月22日(水) その3 この忠魂碑は、裏側に「紀元二千六百年記念」とかかれているように 昭和15年に日本国家の紀元2600年を記念して作られ、日露戦争以後、戦争で殉死した英霊を祀るために建立された碑で、靖国神社に直結する斎場でもある。
この忠魂碑に関しては、以下の新聞記事が参考になる。 慶良間海洋文化館に向かった。 又、平和への願い 「忘れないで欲しい 島の集団自決」 というメッセージが貼ってある。 館長さんは、国なり行政の責任でこうした村の歴史、資料を展示保存すべきだと語っていた。 5時に、阿嘉島経由の高速船に乗って泊港には6時過ぎに帰ってきた。 |
8月22日(水) その2 この阿波連ビーチの山側に、「マルレ」と呼ばれる特攻艇を隠した壕がある。 昼食を済ませ、チャーター船で座間味村に向かった。 さて、座間味港に向かう中で、大きな建物が確認できた。 沖縄県庁から派遣されている村役場の政策調整監の方から村の概要のお話を伺った後、早速現地視察に出た。 自分も、実は「集団自決」の「体験者」です。 高月山に登る途中、「村長、助役、収入役以下59名集団自決之地」碑の前で、運転と案内をしてくださった議会事務局長さんは、次のような話をしてくださった。 父親が手を下して、弟は出血多量でなくなった。母親は、壕から出されて米軍に病院に運ばれて助けられた。 その話は、つい最近まで知らなかった。 母親の証言は、平和資料館から資料を最近もらって、初めて知った。 これまで母親は戦争の話はぜんぜんしなかった。 その証言は、村史には記載されず、最近知った。 村史作るまでは、母親は話さなかった。 ここ10年ぐらい前から語り始めた。 とのこと。 村史は15年前に発行されたが、その後新たな書物の準備がされているという。 「平和之塔」を案内してもらった後、村に唯一ある座間味ダムサイトに案内してもらった。 (写真の中央の赤い屋根の建物上に道路があるが、その道路との間の崖の部分が、壕に当たる。) 「母は場所を教えなかったが、このあたりだといっていた。」 以下続く) |
8月22日(水) 港には、副村長、副議長、事務局の方と3人の方からのお出迎えしていただいた。 役場について、講堂のようなところで説明をしてもらった。 副村長の松本さんは、開口一番次のようにお話された。 以下お話された順に続く 注:(副議長)以外は全て副村長さんのお話です。 「自決の方の人数は328人。今でも「白玉の塔」碑の刻銘にもれた方が出てくる。今年も8名の方が新たに刻まれた。
終戦時には、港までグランドみたいな焼け野原の状況。何もなく役場にあった戸籍も焼き尽くされてしまった。 『昭和20年3月28日渡嘉敷島で戦死』としか書かれていない。」 私の方から、「村史の中に明文化されたものはあるのですか。」とお聞きしたが、 この後、早速「集団自決」の場所へ案内してもらった。 その場所は、まさに青少年交流の家の敷地内にあった。 現場は、「集団自決跡地」碑の裏側を下る雑木林の中にあった。 「当時は、こんなにも木は茂っていなかった。木を切ってマキに使っていた。この一帯の場所が現場です。 生存者の方は、ここに来ると、あちこちで、悲鳴があがったことを思い出すといいます。」
この国立沖縄青少年交流の家は、昭和47年に米軍は引き上げたその記念に整備された国の施設だが、今日も高校生が野球の合宿を行い、別な芝生のグランドでは、子供たちがビブスを着てサッカーの練習試合が行われていた。
そうした施設の一角にこの場所はあった。 続く) |
8月21日(火)
嘉数高台公園に関しては、宜野湾市のHPのここをクリック この公園は、沖縄戦で日米両軍が攻防を繰り返した激戦地であり、ここで亡くなった多くの犠牲者を追悼するための慰霊の塔がいくつか建てられている場所だ。 米軍の爆撃で鉄筋がむき出しになっている日本軍が使用した「トーチカ」(コンクリートで固められた銃眼施設)が保存されていたが、沖縄戦の目的である持久戦のため、最後の最後まで一刻でも本土への上陸を遅らせるため、多くの犠牲が払われたことの象徴的な施設だ。 以下続く) |
8月20日(月)
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8月16日(木) 丸山真男氏が引用されていることに少しく抵抗を覚えないことはないが、参議院選挙結果を受けて、今年の終戦の日に実にふさわしい時宜にかなった主張となっている。 そして、もう一つ8月6日付けの宇沢弘文氏の「『改革』への明確な拒否」も注目の内容だ。 マスコミのこうした点では、共通するものを感じる。 時代の流れといえる。 関連して、志位和夫委員長の85周年記念講演を是非ごらんください。 お盆を前後していくつかの整理が出来た。 |
8月17日(金) 発表された「松本市放課後児童健全育成事業運営基準(案)」は、ここをクリック まず、何よりもこの運営委員会の発言は、録音するなりして会議録を作成し公表すべきものと考える。 具体的に気がつく点を順序不同で言うと、保護者会の設置を正式に確認した点は評価できる。 職員の配置基準だが、これで十分な「保育」が出来るか、関係からの意見も聞きながら検討が必要だ。 そして、関係者からの話では、この「基準」の対象は、「市が運営(委託を含む)する放課後児童健全育成事業全てとする。」となっているが、具体的な対象施設として、「既存の学童クラブは対象としない。」と市は回答したという。
私自身もいくつか検討と関係者の皆さんとの議論を必要とする。 年内で、この基準を作ろうということだが、この「魂」の部分の議論は、必要ならば十分な時間をかけるべきだ。 3回目の運営委員会は、今月末8月31日(金)午前10時から開かれる。 注) 児童福祉法第6条の2 第2項 :この法律で、児童自立生活援助事業とは、第27条第7項の措置に係る者につき同項に規定する住居において同項に規定する日常生活上の援助及び生活指導並びに就業の支援を行い、あわせて同項の措置を解除された者につき相談その他の援助を行う事業をいう。 |
8月15日(水) 「唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。」 「平和宣言」全文は、ここをクリック 広島市のこれまでの「平和宣言」は広島市のHPでさかのぼって見ることが出来る。 広島市の過去の平和宣言については、ここをクリック 悲惨な過去、戦争を繰り返さないための方策は、平和憲法とりわけ「前文」と「9条」に記されている。 「平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。」 広島市子ども代表による「平和への誓い」の全文は、ここをクリック 今日、松本市の梓川中学生の2人の代表は、「平和へのメッセージ」の中で、次のように述べた。 「(平和実現に向けての)具体的な方法が、今、私たちには明らかではありません。だから、この地で、過去の歴史をたどり、戦争の真実に目を向け、平和とは何なのかを学び、考えを深めることから始めたいと思います。」 「平和へのメッセージ」の全文は、ここをクリック そして、菅谷昭松本市長は、 「核兵器の悲惨さを世界中のどの国よりも認識するわが国は、絶えず核廃絶と平和の尊さを発信し続けていかなければならないということであり、まさに被爆国日本の宿命とも言うべき責任であるということであります。」 菅谷市長の式辞の全文は、ここをクリック 安倍首相の「戦後レジームからの脱却」は、平和の問題だけにとどまらないが、世界的にも「ノー」の審判が下った「靖国派」の動きに対して、さすがに一人の例外を除いて安倍首相も含めて閣僚の終戦の日の靖国参拝は行われなかった。
大きく政治は動いている。 |
8月12日(日) (参議院選挙の)開票の翌日、常任幹部会は声明を出しましたが、このなかには、短いことばで、選挙結果の三つの特徴を浮きぼりにしました。
「日本共産党史85年と党発展の現段階」 又、選挙後に出された「常任幹部会声明」は、ここをクリック さらに、この講演の中では、次のような行がある。 もう一つ強調したいのは、いま求められている「新しい政治」の中身を国民の間で語る仕事は、党中央だけの仕事ではない、ということであります。
いよいよ、来年は、市長選挙が行われる。 |
8月11日(土) 第3回の松本市景観基本計画策定市民会議に出された協議事項は、次の中身だ。 建築物の高さ制限について(高さ制限の基本的な考え方)は、ここをクリック 高層建築物に関しては、松本市は「松本市中高層建築物の建築に係る良好な近隣関係の保持に関する条例」の制定をはじめ、いくつかの取組を行ってきた。 建築基準法の範囲内では、法律的に問題がなければ、後は業者と周辺の住民との話し合いが基本となるが、建設業者が地元業者でない場合のほとんどは、建設が強行されるというのがこれまでの例だ。
そういえば、前回の市長選挙の際、会場近くに高層マンション建設計画が進行中の懇談会の席で、当時の菅谷昭氏が、参加者からの質問に対して、「あまり高いものは制限できるようにする必要がありますね。」と語っていたことを思い出す。 詳細は続報します。 |
8月9日(木) 大江健三郎: 沖縄ノート 沖縄県 渡嘉敷島と座間味島は、「集団自決」があった島として歴史に刻まれている。 議員団でも議論し、可能であれば、調査する方向を確認した。 |
8月7日(火) 「結果は、残念だったが、地域の皆さんから『良くがんばったね』と言われた。頑張り甲斐のあった選挙だった。」 ほぼ共通して支持者の皆さんに励まされて結果を前向きに捉えて引き続き頑張ろうという結論だ。 議席での結果だけ見れば、民主党の独り勝ち。新党日本の1議席以外は、勝ったのは民主党だけ。 04年 今回 民主、共産は増え、自民、公明、社民はいずれも得票数を減らしている。 今回の選挙結果は、自民・公明政権への審判が下ったことを示しているのはここに明確だ。 実際、 長野県の場合は特に、もう一つの選択肢として新党日本があったことは事実だ。 昨年来、今年は春の一斉地方選挙、そして参議院選挙と一連の選挙として取り組んできたが、街頭宣伝へ集まってもらった方の数、ポスターの張り出しで「第一党」になれたことなど、いずれもレコードを記録しただけの結果は出ているものと確信する。 改めて、ご支援ご支持いただいた皆さんに感謝申し上げます。 |
8月3日(金) 「ウォーターフロントの特性を生かした商業レクリエーション機能を主体として複合機能の進展を図る」として進められた「小樽築港駅周辺地区整備事業」は、国鉄函館本線の貨物駅廃止に伴って処分用地となったJRの土地22ヘクタールを中心に全体で55ヘクタールを再開発する計画で、総事業費は不明だが、マイカルの子会社の「小樽ベイシティ開発」が中心となって、当時の市長とともに進められたもの。 この開発の結果、観光客はいったん格段に増えたが、1998年といえば、すでにバブルがはじけていた時期で、その後すぐに、「マイカル小樽」も「小樽ベイシティ開発」も倒産したという。 選挙のため事前の調査と問題意識を持たずに訪れたことを実に反省させられる残念な現地視察となってしまった。 詳細な調査が必要だ。 夕張市も同様だが、財政危機回避を理由に、受益者負担の導入で、ふれあいパス(高齢者の市内無料バス)の有料化、保育料の引き上げ、家庭ごみの有料化などが進められるようだが、安心して住める都市とは逆行することになる。 今日は、空港から急いで市役所に向かい、日曜版の配達をした。 |
8月2日(木) 小樽市は、財政改革プランが視察項目。 小樽商科大学生が名づけたと言う事だが、途中の「地獄坂」は確かにきつい。 文学碑には、ご存知のように、北極星と北斗7星があるが、もう一つ十字のマークも刻まれている。これが何だったか帰って調査をしたいと思う。 改めて見直した後、展望台の方へ向かった。 「定年後12年経った。」と語るその方は、ほぼ毎日ごみ袋を持って、この展望台に登ってくるという。 「小林多喜二は、私らが尊敬する人。しばらく放ってあったが、最近周辺の整備が行われた。階段は市でやってくれたが、案内板は、『お金がない。』ということで市ではやってくれず、ライオンズクラブがつい2週間前に作り、できたばかり。」 ホテルで朝食を終え、小樽市役所に向かい、松本・札幌線利用促進の要望を済ませた後、早速、財政健全化の取組についての説明を受けた。
小樽と言えば、運河の保存、街づくり、そして観光で全国のいわば模範と言われていたのが今までの印象だったが、どうやら、『お金がない。』の意味がそこでわかった。 続きは、松本市帰ってから・・・ |
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