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2021.11.20.. | |
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まいどお世話になります。3日間の休暇をとって再び男の隠れ家に籠ってきました。今回の行き先は八ヶ岳西の山麓、茅野市の奥座敷、奥蓼科。 |
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(左) 車検上がりのKトラを走らせて、目指せ奥蓼科。この一帯は日本の歴史上の旧石器時代~縄文時代~弥生時代の遺跡が数多く発掘されているところだそうです。 (中) 尖石(トガリイシ)縄文考古館にはかねてよりのお目当てがありました。そう、“縄文のビーナス”と“仮面の女神”。いずれも国宝の土偶です。初めて目にして、おおっ~!!、となりましたが残念ながらレプリカで、ホンモノはよその美術館に出張中だそうです。 (右) 発掘されたという縄文土器がたくさん展示してありました。本来ただの器のはずなのになんだこの異様な文様は!。解説文によると、「これでもかと圧倒的な情念を込めて創作されたような気配をまとって異彩を放っている」。ふむふむ。確かに数千年も前の時代のエネルギーが今に伝わってくることがすごい。 |
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(左) 文様はサンショウウオとかイノシシやヘビ、カエルなどの動物が抽象化されたものではないかということです。ふーん。 (中) 土器の制作には高度な技術が必要だったそうです。それはそうだろうなと何となくわかります。ところが、「未熟な技術でなんとなくできあがってしまったデキソコナイの土器」も数多く出土しているようで、これはこれで面白い展示でした。こういう、あっと驚くような展示があったりするのが地方の博物館の面白いところです。 (右) 復元された縄文式住居。自分はこんなところには絶対住めないな、としか思えませんでした。 |
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今回の隠れ家は奥蓼科温泉郷・明治温泉旅館。以前何度か日帰り入浴で来たことがあって、一度泊まってみたいと思っていたことを今回実現しました。温泉は鉄分含んだ自然湧出の源泉を加温したもの。“人気の秘湯”ということでけっこう旅人がいました。しかし2連泊はさすがに自分だけ。持っていった文庫本は島崎藤村「新生」の上と下。実はこいつを腰を据えてじっくり読もうと思って、それにはそれにふさわしい場所を選びたいと思って選んだのがココだったというわけです。「新生」はなかなかにスゴい自伝告白小説でいろいろな解釈や評論をされますが、自分的にいえば島崎藤村が背負っている十字架とは一体何だ?、その十字架はいつまで背負わなければいけないのか?という小説です。そもそも島崎藤村の文章はいちいちしつこくて長い。ねちっこい。「どうかして生きたいと思うばかりに犯した罪を葬り隠そうとした彼は、たとえいかなる苦難を負おうとも、一度姪に負わせた深傷や自分の生涯にとどめた汚点をどうすることもできないかのように思ってきた」。「かりに父がこの世に生きながらえていて、自分の子の遠い旅に上がって来た動機を知ったならなんと言うだろう・・・・・けれども、彼が最後に行って地べたに額を埋めてなりとも心の苦痛を訴えたいと思う人は父であった」。ずっとこんな調子だからそりゃ簡単には読めんわ。今、下巻の途中ですがこのことは「文庫本巡礼記」にまた書いときます(久々に)。逃亡先のパリではドビュッシーの演奏会に行ったなんて出来事もあってこれまたびっくり。「大人男子のclassic」のネタがひとつできました。 |
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温泉までの道のりには多くの観音様が祀られていました。これは十一面観音か(左)。江戸時代にこの地域を訪れた湯治客が寄進したものが街道沿いに祀られたんだそうです。天気もいいので2日目はちょっとご近所散歩。といっても歩行3時間。尾根をひとつ越えたところにある唐沢鉱泉が目的地。一帯は苔がきれいなところ(中)。冬間近なのでさすがに色褪せていますが、夏にはとってもきれいなはず。展望台から見えた八ヶ岳(左)。地図によると高いのが阿弥陀岳、右が権現岳。 |
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標高2006mにある四つ辻に到達(左)。ここから先は本格登山になるので今日はやらない。右折していざ唐沢鉱泉へ。源泉がブクブクと沸き出ているところ(中)。緑の苔と白い湯の花のコントラストがウツクしい不思議な風景でした。ここでも温泉に浸かって帰りはほぼ平坦な道を選択(右)。クロスカントリースキーのコースだそうです。 |
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『ブラタモリ』が好きでよく見ます。1か月くらい前の「玉川上水」がおもしろかったです。同じような人工水路がここにもあることがわかってちょっと探しに行ってきました。渋川というメインの渓流があってその途中に取水口があっておよそ7キロ流れて当時不毛だった一帯を潤したということです。玉川上水が1650年ごろならここは100年後の1750年ごろのこと。案外簡単に取水口を発見(左)。結構急流気味にダバダバ流れていって(中)、行きつく先が御射鹿池(右)。これも人工の池。なんかどこかで見たことがあるような風景だと思っていたら、なんとあの東山魁夷画伯が好んで絵の素材とした場所なんだそうです。(画像の上にマウスポインタを。) |
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