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2021.11.2.. | |
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まいどこんにちは。10月初旬にぶどうシーズンが終わっておよそ1ヵ月。1年間のうち1ヵ月間のみ許されるグータラの日々を満喫しています。12月からの剪定作業に始まって3月4月はまあゆっくりですが5月GW明けから一気にぶどう作業が忙しくなり6月7月は朝暗いうちから夜暗くなるまで、8月9月はぶどうの収穫箱詰め。10月初旬に全てをこなしていよいよ力尽きていたところへリハビリの甲斐があってようやく生気を取り戻してきたところです。 |
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(左) 第1巨峰園。今年の巨峰は“当たり”でした。9月前半に勝負をかけたので何といってもロスの少なさが特筆モノ。おかげ様でお金になりました。決して手を抜いていた訳ではなかったのですがいろいろな部分で“ハズし”てしまった去年の二の舞を今年は絶対に踏むまいと2月のうちから準備しておいたいくつかの技がほぼ的中。自分のようなオロカな人間にも学習能力がしっかり備わっていることが証明できました。第1巨峰園についてはただ今、“やった感”とか“やり切った感”でいっぱいでなかなかすがすがしい気分です。 (右) Rainbow葡萄園。元肥を施して耕うん機かけたところ。きれいになりました。11種15本の木はみなそれぞれ個性が違います。品質をトータルとしてさらにUPさせるべく、来年はもっともっと細かく手を入れます。 |
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(左) Seven's葡萄園。最後最後のピオーネとナガノパープル、雄宝の裂果がやはりきつかったです。ぶどう園の性格上、排水性にやや難があるのはもう仕方がありません。なので来年はちょっと違うやり方を考えています。シャインマスカットはまずまずでした。目指せ糖度19度!。最低限18.5度です。これってけっこう我慢くらべなんです。糖度オール19度越えを目指すには、木1本あたりの房数をどこまで少なくできるか、1房あたりの粒数をどこまで少なくできるか、肥料N(窒素)成分をどこまで少なくできるか、シーズン中2回の摘心と副梢管理をどこまでしっかりできるかにかかっています。その我慢ができない生産者のシャインが、あるいはそんな我慢なんてしなくていいよ糖度17度でいいから大きいの作って出荷して稼げや稼げという産地の不埒なシャインが今や小売店では主流となりつつあります。シャインマスカットは日本全国どこでも誰でも簡単にそこそこ作れてしまうとってもいいぶどうなんですが、極めようとすればするほど、実はとても奥深い世界があるぶどうです。オリエンタルスター。なかがわ葡萄園の優等生。レインボーセットに欠かせない一品となってくれました。黄華。今年は粒伸びがあまりなくてハズレ年でした。見ておれ来年きっちりリベンジしたる。 (右) 第3デラウェア園。大粒種のゴツゴツとした太い枝ばっかり見ている時にデラの畑に行くとデラ木のやや細い優しい枝っぷりにほっこりと癒されます。3デラは、早生デラもフツーデラも1回目ジベ処理時の気象条件が今ひとつでそれが最後まで響きました。タネ混入。1デラは、8月お盆前まではとってもいい感じできましたが、お盆後の猛烈豪雨による裂果と集団になって粒を食い散らかすハチの被害が甚大でした。しかし、収穫するデラが少なかったことがかえって幸いして、巨峰の収穫を早く始めることができたという側面も無視できません。デラと大粒種を両立させることはなかなかに大変なことです。 ということで、今日現在の「さしあたりやることリスト」。1デラ。堆肥まきと耕うん。3デラ。もうない。第1巨峰園。堆肥まきと耕うん。Seven's葡萄園。耕うん。Rainbow葡萄園。もうない。ただしフィールド仕事とは別に、あちこちでいろんな予定とか会議体とかがあるので11月のカレンダーはそれなりに埋まっています。とはいうものの、半日グータラの人生を送りますね11月も。 |
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10月のとある平日。3日間のド休暇。そんな遠くないところで温泉で空いててご飯が美味しくて部屋に籠ってゆっくり文庫本読めるところを探して出かけてきました。長野県と群馬県の境界、軽井沢の南、佐久市の奥座敷、群馬県側からは下仁田町の向こう。初谷温泉。 |
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(右) 長野新幹線開通後廃線となった旧信越本線の熊ノ平駅跡。長野県側の軽井沢と群馬県側の横川との標高差が半端ではない。鉄道よくこんなとこ登ったなと。SLやアブト式鉄道だと横川⇒軽井沢間が1時間以上かかったということで、上り下りの交換駅が必要とのことで作られた駅だそうです。たまたまここだけ水平。駅の両側は見ただけですぐわかるなかなかの急勾配。明治の時代に島崎藤村が妻ふゆ子(だっけ?)と共に東京から佐久に引っ越す時にここを通ったはず。数年後に妻と子供4人連れて東京に引っ越した時もここを通ったはず。トンネルの中で窓から入ってくる蒸気機関車の煙でゴホゴホと大変だったろうなあなどという妄想ができる場所でした。 (中) トンネルがあれば橋梁もあり。レンガ作りの大アーチ橋。こういう近代産業遺産見るの大好きです。レンガ200万個と言われてもよくわからん。 (右) 横川といえば荻野屋の“峠の釜めし”。本店でランチしてきました。残念なことに味噌汁が超不味すぎ。インスタントもここまでくるとこれで金は取れないぞ。 |
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クルマで関越自動車道を走ると信越国境にその異彩がひときわ目立つ岩峰が2つあります。荒船山(左)と妙義山(中)。もう40年位気になっていたところです(通過すればすぐ忘れるけれど。)が、ようしせっかくだから近くまで行ってみよう、できることならてっぺんまで登ってみようというのが今回の旅の目的のひとつ。3日目に荒船山登ってきました。登山道整備されていて楽チン。でも全容は遠くから見るとすごい形に見えるけれど近くからではなんだかよくわからないってことでこの山は登る山ではなく遠くから見る山だってことがわかりました。でもこれでいいのだこれで40年来の懸案が解決しました。妙義山はキケン過ぎて歩けないことはわかっていたので山麓コースをぐるり2時間歩いてきました。でも妙義山はそんなことよりもそんなことよりも。妙義山麓の、神社の鳥居の手前の、道路と参道の角にある、何とかという旅館だか合宿所は、今でもそこにあるのか?、それは夢や幻ではなくホントにそこに実在するのかあるいは実在したのか?をいつかの機会に確かめたいという40年来の願望をこのたび叶えることができました。 それは自分高1の夏休みだからもう45年とか前の記憶。埼玉県所沢市で生まれ育って所沢より外の世界を全く知らない田舎の16才の少年がその昔小江戸と呼ばれた川越市の進学校(男子校)に通い始めて数か月。すんげえ優秀な同級生や上級生がまわりに普通にいていろんな刺激にようやく慣れてきた初めての夏休みに部活の夏合宿で連れていかれたのが妙義山でした。風化されずに今でも残っているこの時の記憶が次のふたつ。①夜、大部屋で上級生にさんざんやられた布団蒸し。もう涙目。 ②夜、上級生の誰かが自分ら1年坊主を外に集めて言ったこと。「ここ登ってったところにクルマが止めてあってそんなかでオトコとオンナが〇〇してるからお前たちそーっと近づいていって窓バンバン叩いて帰ってこい。」 自分を含めた哀れな1年坊主10数名は上級生様の指図の通りそろそろーっと神社の参道を登っていきました。真っ暗な夜道を半分は肝試し、半分はオトコとオンナがなんだって?という好奇心。しかし結局どこまで行ってもそんなクルマはなく、何ごともなくただフラフラ帰ってきただけというオハナシ。ところがその記憶が数十年の歳月を経るにつれて風化され美化されてゆき、あれは夢か幻の中のできごとではなかったのかというウツクシイ思いに至ったのでありました。その幻の正体を突き止めるべく、クルマを走らせ目指せ神社の参道入口。果たして、あった!!、たぶんこれだこの旅館?に違いない。すぐ横が参道という記憶からして合宿場はここに違いない。その名も「ひしや旅館」。そうだそうだ確かそんな名前だった気がする...。クルマから降りて参道を登ってみた。この上でオトコとオンナがなんかしてるって.....??。 うーむそれらしい場所などどこにもないぞ。それにこんな目立つところで自分なら〇〇しない、やはりあの時は上級生も1年坊主もみなバカだったんだという結論に至った次第。ただそれだけのことですがこんなくだらない妄想で遊ぶことができるのは一人旅だからです。 “高校”と“夜道”で今突然思い出しました。今ここで記録しておかないと永久に忘れられてしまうかもしれないのでここに記録しておきます。となりの女子高に通っている中学の同級生が言ったこと。「学校に佐藤豊道っていう先生がいてね、みんなにからかわれているの。気をつけろ、佐藤と夜道に、って言われてるの」。うーむ可愛すぎる。またこの時、忠信くんという同級生がいました。彼は、ただの豚と呼ばれていました。 |
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