2019.11.7.   


 まいどこんばんは。
 昨日まで3日間の休暇でした。長野県と新潟県にまたがる、秘境・秋山郷に行ってきました。目的は大きく分けて2つ。
 ① トレッキングしながら黄葉狩り。点在する温泉を堪能するという純粋な観光客気分。
 ② 昔の人は何故にそんな秘境と言われるところにわざわざ住んだのかという単純明快な民俗学的好奇心。だってそうでしょ、ちょっと下界は魚沼という大穀倉地帯。縄文時代の遺跡もいっぱいあって下界なら生活環境そんなに悪くはないはず。なのに秋山郷の昔の人はそんないいところに住まず、どうしてこんな交通・通信の不毛な地を選んで何百年も住み続けたのか(それどころか奥へ奥へと開拓に入ったのはどうして?)、同じ雪深いところでも下界で暮らす方がよっぽど楽なはずなのに、という素朴なギモン。で、結論を言えば、旅館のおかみのたったの二言三言で、長年抱いていたこのギモンがスルリと解けました。

 (左) クルマでわずか3時間で秋山郷の入り口に到着。さあこれからどんな展開が待ち受けているのか.....。
 (中) 登り2時間半の行程なのでえいやっ!と苗場山を目指しました。ところが山頂付近は雲の中。寒いのと視界が効かないことで途中で断念。もうええわ....帰る!って感じで。
 (右) 3日間の隠れ家に選んだのはココ。秋山郷のちょうど中間くらいに位置する屋敷温泉・秀清館。2階の二間つきの角部屋でした。ウレシイウレシイ。部屋よし料理よし風呂よしおかみキレイのいいことづくめでした。


 秋山郷の東は苗場山。西がこの鳥甲(トリカブト)山。朝5時に登山口までおかみに送ってもらいました。寒いし真っ暗だしヘッドライトつけても怖かった......。でも明るくなって高度を上げるにしたがって見渡す大パノラマ。上信越の山は初めてなので地図を見ても周囲は知らない山ばっかり。おかみの作ってくれたおにぎり弁当がうまい。


(左) 30万年前に苗場山が噴火して流れてきたという溶岩の層がダイナミック。
(中) 怖いつり橋。足がすくんでしまって対岸へは行けませんでした。かつては川の左岸と右岸の集落を結ぶ生活道路だったそうです。
(右) 川の色は吸い込まれそうな青。


 (左) 修復・補強がしっかりなされている、230年前に建てられたという民家。230年の風雪に耐えてきたということは当時としてはかなりの豪邸だったと推察。それよりもむしろ多くの一般的だった今はなき住宅の姿が知りたいです。
 (中) わずか4軒の見倉という集落。深山の急斜面のちょっとだけ平らなところ。なんでこんなところにわざわざ住もうとしたのか....。人間より熊の方が多かったはず。
 (小) 下界の栄村小学校の分校。おかみもここの出身だそうです。かつては近くに教員住宅もあったほど生徒数もそれなりにあったそうですが、今は6年生が一人だけ。来春の休校が決まっているそうです。たまたま見たとき自動車が3台ありましたが、先生と給食関係の人と送り迎えのお母さんの自動車だということです。ここを巣立った若い多くの人は里や都会に出て行ってしまい今は高齢者ばかりで10年先には秋山郷には住む人がいなくなるし私もいつまで旅館をやるかわからないとおかみが言っていました。

 宿で夕食をご馳走になりながら、おかみ(Kさんとします。)がいろんなこと話してくれました。Kさんは見たところ40才くらい??(知らない)。中学までここで育った人です。その昔、源頼朝の軍勢に追われて全国各地に逃げ散った平家方の一部の人たちが住みついたのが秋山郷のはじまりだそうです。しかし下界の人たちとは人種が違うしつき合ったりしたら告げ口外交されてひどい目に合うかもしれないから絶対下界の鬼みたいな人たちとは交流しない、また反対に下界の人たちも同様で、山に住みついている得体のしれない熊みたいなやつらとは絶対に交流を持ってはいけないということで、初めから秋山郷の人たちはその衣食住、人生の全てを秋山郷の中だけで完結させないといけないという宿命を抱え込んでいたのでありました。江戸~昭和初期に至るまで、貧乏人の子沢山そのもの。家に残れるのは長男だけで次男三男以下は皆家を出ていかなければならないし女の子も同様。夫婦になった新しい男女はどこか住むところを作らなくてはいけない。近所にちょっと平らなところがあればそこに小屋を建てればいいけれどそれが無理なら住める場所を探しに奥地へ奥地へ分け入るしか他に選択肢がなかったようです。畑も開墾しないといけないし。畑ったってコメは無理だから稗粟黍が主食。肉は熊かウサギ。道路なんて存在する以前のことだから、深い深い雪が積もれば隣村とさえの交流も断たれただろうし、不作の時は口減らしなんかもあっただろうし、熊に襲われもしただろうし、ビョーキに罹っても医者もクスリもなかっただろうし、それはそれは大変な格闘の連続だったのであろうなとなんとなく想像はつきます。人里から隔絶された土地。そこでKさんの一言。「昔はそんなもんみたいだったしそれよりほかにしようがなかったみたい」。


 温泉は3種類を堪能。Kさんによると、比較的新しい温泉は別にして、古くからある温泉は病気の療養が本来の目的だったとのこと。クスリも医者も病院も下界の病院へ行く交通手段もないとしたら毎日何回何回も温泉に浸かる以外に療養する手段が他になかったという時代があったということです。そうかそれはそれでわかる気がする。なるほどどんな温泉に行っても脱衣所には必ず、リューマチとか結核に効くとかの「効能」が記してありますが、それはそんな昔の時代の名残りであるのだなと妙なところを理解しました。ところで温泉を紹介している本や雑誌にはたいていそんな「効能」が書いてありますが、でも今の時代にそんな「効能」を目的にわざわざ温泉に行く人なんていないはずだからそんなのをわざわざ書き記す必要性ないと思うしそんな編集者やライターのセンスを疑ってしまうのは自分だけであろうか。もし自分がライターならこの3つの温泉はこう書く。(左)小赤沢温泉の楽養館。空気に触れると赤褐色に変色する、鉄分を多く含んでいるという珍しい温泉。一瞥するだけでその色は、濃い。浸かると肩から下が見えない。浴槽の底は砂を踏んでいるよう。手ですくってみるとおそらく鉄分を含んでいるであろう泥のようなものが手にいっぱい。これを清掃時に洗い流してしまってはもったいない。だから全体にキタナイめ。そのかわり無駄な飾り気のない、ホンモノのお湯である。立派な木造の湯屋も年輪を感じさせてくれる。これはすばらしい。 (中)屋敷温泉秀清館の内湯。浴場の扉をはじめて開ける時の期待感が裏切られることはない。浴場に入るなりヌメヌメとした硫黄の匂いを全身に浴びる。湯温が高ければ透明な緑色、やや低ければ白濁した緑色に変化するという不思議な硫黄泉。寝そべられる寝湯もあってまったりできる。硫黄分が結晶化した湯の花もたっぷり。析出物で固まった注ぎ口の感じもいい。それにしてもこの緑色はいろんな意味で、そそられる。あらぬ世へトリップできるかもしれない。オトコの隠れ家の湯としてのポイントは高い。(右)切明温泉リバーサイドホテルの混浴露天。肌がすべすべに感じる無色透明のアルカリ泉。ほのかに感じる硫黄臭は飲んでもおいしい。加水はしてあるものの開放的な空間に源泉が惜しげもなくダバダバかけ流されている様は圧巻。話し声も聞こえないほど。ただしクマの出没には注意。危険。でもクマがあなたをサルと見間違えるかもしれない、とか書くかわりにリューマチ、神経痛、慢性消化器疾患やうつ病に効能があるとか妊婦さんは浸かってはならないなどとは書かないつもりであるがいかがなものであろうか。


 宿の精算を済ませてKさんにお礼を言って昨日は朝9時に出立。Kさん曰く、「ところでぶどうの仕事はこれからはなあに?」。自分、「えっ!?、ワタシがぶとうやってることなんてワタシ言った??」。Kさん曰く、「覚えてないの?。ずいぶん酔っぱらっていたからね」とわらってました。
 (左)(中) 黄葉の中をお散歩。
 (右) 今回の旅には縄文の火焔型土器をこの目でしっかり見るというもうひとつの目的がありました。秋山郷の入り口にあたる新潟県津南地区は縄文の遺跡がたくさんあるところでもあります。発掘した破片を組み合わせてみたらそのままのものが出来上がったという土器も少なくないようです。町立の小さな博物館なので静かにしかも間近でたくさん、しっかり見ることができました。陳列棚のいくつかに空白棚があってそこには「ただいま〇〇博物館へ貸し出し中」なんて書いてあって笑ってしまった。それだけ内容が充実しているということですね。左の火焔型土器は重要文化財に指定されているそうで、日本の縄文を代表するものとしてイギリスの博物館に出張したこともあるそうです。右は王冠型土器と呼ぶらしいです。なるほど逆さにすれば王冠に見えないこともない。この火焔型と王冠型、実用性には乏しいこの両者は何か違う対立する概念を表出したものではないかという論考もあるらしいです。うーむ考古学の世界も奥が深い......。