4月28日(木) 

  新しい教育委員長、5人の新人の議員さんを迎えての議会全員協議会      


 増員選挙が済み、今期後半の2年目を迎えるにあたっての議会人事改選の方法に関しての確認をするための議会全員協議会が開かれた。

  まず最初に菅谷市長から、次のようなに挨拶があった。
  「当選された5人の皆さんに心からお祝いを申し上げ、お力を存分に発揮していただくように、ご期待申し上げます。 合併後、4村の皆さんとの語ろう会を行なった。合併の不安をお持ちである一方、大きな期待を持っていることを実感でき、たいへん有意義な時間だった。 今後乗り越えていかなければならない課題があるが、一日も早く、合併して良かったと言えるまちづくりを市民の皆さんとともにすすめて行きたい。」

  続いて、 先の議会で、選任された斉藤金司新教育委員長さんが次のような挨拶をされた。
  「3、4年前にあるポスターに出会いました。 何人かの子どもたちが描かれていて、おはよう、こんにちは、ありがとう、ごめんね、 という4つのことばが書かれているとても簡素なポスターでした。 とてもいいポスターと感じました。
  人は、この4つのことばを持っていれば、人間らしく生きることができるのではないか。すべての家のたとえばトイレに、これが張ってあり、みんながこの4つのことばを心において、朝を始めることができれば、どんないいいだろう。そう思いました。
  そして、このような小さな営みこそが、教育を総体として変えていく力を持つ、そう感じたことです。
  これは松本市の教育委員会が作ったもので現在も使われている、 今時代の流れに連動して教育もまた、個性化、自由化、多様化というキーワードのなかでに、大きく変わりつつあります。
  これらは時代が要請する必然でありますが、 しかし同時にこのような変革の時代にあってこそ、教育における不易、たとえばこのポスターのようなものが、こつこつと地道に、実践されなけならないと考えています。
  4月以来多くの方々の合併に賭ける多くの方の願いを強く感じてきた。 こっれらの想いをまっすぎ受け止めながら、市民の皆さんと心を合わせて、新生松本市の教育の充実に向け力を尽くしたいと考えている。
  ご指導ご鞭撻をいただきたい。」

 ご承知の通り、斉藤金司さんは、長野県の教育委員を勤めていた方。
 発言に注目すると同時に、今後のご活躍を大いに期待します。

 続いて、5人の議員さんがつきのように挨拶された。

 望月宣治議員:
 「1年議員として、しっかり頑張りたい、特に四賀の良いところを市民にアピールする中で、いい四賀地域を目指したい。」

 上松正文議員:
 「今後は議員としての行政経験を生かしながら、特に山間僻地まで行き届いた血の通った決め細やかな行政サービスに維持向上に努めていきたい。」

 忠地義光議員:
  「合併してよかったんだ、これでよかったんだという声を是非作って生きたい。旧市民の皆さんが奈川の地に足を運んでいただくことが観光宣伝につながるので、22万7000人全員が訪れていただけますように。」

  宮坂郁生議員:
  「農村地帯。住民も基幹産業であるりんごを松本市の観光資源にしていただいて、市政発展にという声がある。地域の特色があるわけですが、地域住民が合併して大いに良かったといえる新松本市の発展に力を尽くしたい。」

  村瀬元良議員:
  「何もかもわからないことばかり、日々勉強で頑張って行きたい、ご指導願いたい。」

 次第では、これで議題に入っていくことになっていたが、新人の議員さんだけ自己紹介して、私たちがそれをただ聞いているというのはどうしてもおかしなこと。
  合点がいかず、私から、旧松本市の議員も自己紹介すべきことを議長に提案した。
  言い出しっぺの私からという事になり、全員の自己紹介が終了後、今期任期の折り返し点にたっての議会人事に関する選出方法を確認して、全員協議会は終了した。

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4月24日(日) 

  梓川増員選挙の結果      


 結果は、厳しいものだった。
  前職二人、新人二人の戦いだったが、結果として前職落選、新人二人が新議員となった。
  四賀地区は、候補者全員が3月まで現職の議員のたたかいの中で、いわゆる競り負けといってよいが、梓川の場合は、そうしたたたかいにすらならなかった結果だ。

 正直言って、短い期間のかかわりの中で、訴えに対する住民の皆さんの手ごたえは、感じることができたが、対話が十分でなく、全体が見えない中での選挙戦だった。
  事前の全戸配布チラシ、本番中にも配布したチラシなど政策的には、正直住民の皆さんの願い実現の上での具体化という点では、論戦をリードでき、一定の評価をいただけるものだった。
  (一部に調査不足から来る弱点が生まれたが、それは私自身にとっても痛恨の極みだった。)
  それは自画自讃の主観でなく、告示直前から、他の候補者が発表した政策が、ある分野では、それ以前に私たちが発表した文書と一字一句まで同じという場合があったことにも現れていた。
 その結果、政策は、「横並び」と評する方もいた。
  しかし、合併に伴う地域の代表を選択する選挙で、私たち共産党の候補者は選択されず、しかも最下位というのが冷厳な事実だ。
  選挙が終われば、どうゆうたたかいだったかが、明らかになる。
  そうした事実を踏まえて、今後の教訓に生かす事がとても大切だ。
  三村候補の得票数、698は、前回2年前に比べ約1.3倍、昨年の参議院比例代表選挙の463を上回るものだった。

 ご支援ご支持いただいた皆さんに心から感謝も申し上げるとともに、選挙中掲げた公約、政策については、責任を持って、5人の議員団として地域の皆さんの願い実現の立場で奮闘すること表明します。
  本当にありがとうございました。

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4月20日(水) 

  武器に触れたり、戦車試乗の中止を申し入れていた菅谷市長      


 菅谷市長は、十九日の定例記者会見で、17日(日)に開催された「自衛隊祭り」について、子どもが武器を触ったり、兵器に試乗したりすることのないよう、自衛隊松本駐屯地司令に、3月30日に申し入れをしていたことを明らかにした。
  そして、昨年同様今年の自衛隊祭りに参加しなかったことについて以下のように述べている。

  記者会見で記者の質問
  「欠席の理由を、憲法記念日を前に改憲についての見解を」

 菅谷市長
  「自衛隊の存在を否定するものではない。 むしろ災害を含めて、危機管理を含めて大変お世話になり感謝している。 過日、入校式には参加し、挨拶している。 昨年は、欠席して、どうゆうお祭りか状況を把握できなかった。 武器を展示するだけでなく、触らせる。兵器に試乗させる。模擬戦という事になると、判断力があればいいですが、ない子どもたちに教育上、お祭りといえども少し工夫してもらいたい。 実は、駐屯地司令にあって、自身の気持ちを述べ 且つ 出来たら、兵器に試乗するとか、武器を触る、については 出来たら形を変えてもらうように申し入れした。 『入校式には、出席する。』と述べ、司令には理解してもらった。  今年は同じ日に9時から 梓グランドで 松本市消防団の訓練があったので、そちらに出席し、1時間ほどそれを見て、その後美鈴湖の湖開きがあったので、主催者としてそちらに出た。 助役、部長、課長に参加してもらい、実際に行なわれている内容を見てきて欲しいとお願いした。 内容を検討して、今後については検討したい。 改憲については、市長という立場では、(コメントは)控えさせてもらう。」
  「武器展示、ふれさせる機会があるので反対という事で、欠席した。昨年と同じ理由。」
  「申し入れに対し 司令は、『意見は受け賜ります』文書ではないが、直接話した。 今後については、実際の状況を検討してみて。」

 19日の会見の様子は、ここをクリック (自衛隊祭りに関しては、30分を経過したころからです。)

 自衛隊入隊式での菅谷市長の挨拶 については、ここをクリック

  私は、17日が増員選挙の告示日でもあり、自衛隊祭りを見ることはできなかったが、マスコミの報道によれば、「当日は武器を触ることができ、昨年なかった動く戦車の試乗もあった」ようだ。

 市長が、入校式に参加するという事は、事前に確認済みだった。
  その際、今年の自衛隊祭りに参加するかどうかは、現在検討中との確認をしてあった。
 公務もあって、参加しなかった訳だが、結果として参加できる内容でなかったことは明白だ。

  私たち日本共産党の自衛隊に関する立場は、2000年11月に行なわれた第22回大会で以下のように明らかにしている。

 憲法九条にてらすならば、自衛隊が憲法違反の存在。「戦力ではない自衛力」などといってごまかす解釈改憲は、到底なりたたない。
 それでは、憲法九条と自衛隊の現実との矛盾をどう解決するか。わが党は、改憲派がとなえるような自衛隊の現実にあわせて九条をとりはらうという方向での「解決」ではなく、世界史的にも先駆的意義をもつ九条の完全実施にむけて、憲法違反の現実を改革していくことこそ、政治の責任であると考える。
  自衛隊問題の段階的解決というこの方針は、憲法九条の完全実施への接近の過程では、自衛隊が憲法違反の存在であるという認識には変わりがないが、これが一定の期間存在することはさけられないという立場にたつことである。  そうした過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。 国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である。

  詳細は、こちらをクリック

 要は、憲法違反の自衛隊は、解消させる。一定の期間存在することはさけられないが、その間は、必要な場合には、大いにそれを活用するという立場です。

 このとき、「共産党は自衛隊を認めた」とマスコミは騒ぎ立て報道した。しかしその報道が意図的であることは、以上の中身を見ていただければ解ること。
  今から5年前のことだ。
 
  市長の立場で、入校式への参加も含めて、現実の松本市での「自衛隊問題」に対する今回とった市長の姿勢は、十分に伝わってくる。
  しかし、九条改憲に関しては、今回のコメント、この間の議会答弁も含めて、市長の思いは、まだ伝わってこない。

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4月19日(火) 

  重厚なつぼみの枝垂れ      


 選挙が始まり、梓川に常駐するようになって、しだれ桜のつぼみの動きに注目するようになった。
 今度の選挙との関係で、上の段の枝垂れ桜に気がついたとき、初めてという印象はなく、どこか懐かしい写真で見たことのある風景だった。
 
  下の段の桜は、すでに告示日ごろから咲いていたが、上の段は、やっと今朝あたりが咲き始め。
  北北条のしだれ桜も膨らんだつぼみの中に、淡い色が見え隠れする。 今まで桜にあまり関心もなくこれほどまでに観察したことがなかったが、毎日毎日変化している。
  今まで透き透きしていた枝の間に、深い小豆色のつぼみが膨らみ、開花する前の垂れ下がる姿は、樹の歴史、実に重厚さを感じさせる。
 いよいよ今日の昼あたりに開花となるだろう。  

 今朝は、5時起きで、上の段の一番奥、三郷村との境周辺の全戸配布を行った。

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4月14日(木) 

  「おまん」      


 夜、梓川から帰ってきたら、次男が、修学旅行から帰って来て、お土産に、生八橋とおまんを買ってきてあった。
  義母には、竹製の楊枝入れ、三男には竹製の籠に鈴が入ったキーホルダー、そして私たちにはこの二つを買ってきてくれた。
  さっそく、聞きなれない「おまん」に手をつけようとしたら、すかさず駆け寄られて止められた。

  「おまん」は、生八ッ橋の別もののようだうだが、中間教室でお世話になった先生方にということで買ってきたようだ。
  あまり話を交わすことはなかったが、表情を見る限り楽しかったことがわかる。
  もうひとつの目的は達成したのかどうかについては、直接聞いてみた。
  「話はできたよ。」と実にうれしそうに答えた。
  悩んだ末のひとつの結論とその結果。  
  本人には実に良い思い出・経験となったことと思う。

 今日もほぼ1日梓川に居た。  
  選挙事務所らしくするために、机を持ち込んだり、コピー機を調達して何とか実務ができるようになった。
 すでに梓川には、何往復しただろうか。 今までは、倭橋から大町方面へ行くのに通過する位で、ほぼ東西に走る梓川村の幹線道路は、ファインビュー室山に行った時に利用しただけで、ほとんど走ったことはなかった。
 今回、往復ごとに新ルートを探し、迷いしながら、距離的にも時間的にも最短コースを探すことができた。
 梓川の事務所から、井川城の事務所まで、距離にして10.2km、時間で20分前後で到着できるようになった。
 チラシの全戸配布を行うことで、いわゆる抜け道にも強くなった。
 
そして、地域のことも少しだが身近になっていく。  
  事務所の近くには、旧梓川村にある2つの東西保育園の内、西保育園がある。
 地域の皆さんとの対話を大切にしながら、選挙戦に入りたい。

 いよいよ選挙ポスターとハガキが明日出来上がる。

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4月12日(火) 

  家族の再出発の日      


 朝早く、次男が修学旅行に出かけるために、妻が中学校まで送っていった。
  5時50分集合。  
  三男を学校に送り出した後、その妻も、1年7ヶ月ぶりに、職場に出かけていった。
 いつかこんな日が来ると思っていたが、今日がその日となった。

  リハビリの半日勤務。
  2年前の今頃は、一斉地方選挙。私自身の選挙の時期だった。
  実は、その前年の暮れに妻は、規模の大きい手術を行なった。 手術は成功し、そして翌年の4月には、私とともに選挙をたたかってくれていた。
  その後、しばらくして、休みがちになり、医師の診断を受け、療養に入った。

 それから約2年。
  二人の子どもたちの変化も含めて、我が家は、実に「ありがたい」の連続。
  私のいわば仕事にも役立つといったら語弊があるが、新たな分野、人々との出会い、対応、「事件」の連続だった。
 
  夜は、勤労者福祉センターで、第3回中央委員会総会の報告会が行なわれたが、10時過ぎに帰宅して、休んでいた妻を起こして、杯を交し合った。

 私の選挙以降、学校は卒業したものの仕事がなく、私の選挙を手伝ってくれた長男の8月の就職、義父の他界、などこの2年間は、我が家族のそれこそ各々の生き様、変化の連続だったが、これですべての構成員の新たな出発が始まった。

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4月11日(月) 

  「さわやかなだけでなく、切実なドラマ」=ファイト      


 NHKの朝の連ドラについては、何度もこのHPで紹介してきた。
  現在は、脚本・橋部敦子、鈴木圭チーフプロデューサーによる「ファイト」。
  朝の連ドラとしては、72作目。  

 この作品について、4月3日付けの赤旗日曜版に番組紹介の記事が出ていた。
  「全編を通して、初めて10代を主役にした作品」。そして「さわやかだけでなく切実なドラマをつくりたかった。」と鈴木チーフプロデューサーは語っている。

 赤旗日曜版の記事は、ここをクリック (PDFです。)

  そして、今週がこのドラマの最初の盛り上がりの部分だ。 ばね工場を営む父親が取引先の商社の不正を告発して、結果として工場が閉鎖に追い込まれる展開だ。
  多分、梓川での市議会増員選挙のこともあり、見落とす部分も出るかもしれないが、「切実な」部分に期待したい作品だ。

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4月8日(金) 

  いろいろな人との出会いの中で蓄積したエネルギーの力      


 中学3年生に進級した次男は、来週12日(火)からの修学旅行に行くかどうか、最後まで悩んでいた。
 申し込みの締め切りが、今日中だったが、参加することを自ら結論づけ、夕方には担任の先生に電話で連絡したようだ。
 その結論を出すにあたって、祖母からの次のような話が、参加するという結論を決定づける重要な要素になったらしい。

 祖母が中学3年生の年は、昭和19年。
  それこそ戦争のさなかで、修学旅行にいけなかったらしい。
 そして、戦後も30年以上が経過した昭和52年になって、その時の中学の同級生が「修学旅行」として、横浜へ旅行を計画した。
  すでに他界していた人もいたが、同級生の約半分の20人ぐらいが参加した。
  遠くは韓国から、参加した人もいたという。
  そしてそうした話を紹介しながら、最後に祖母は、次男に対して、「京都へ旅行に行くことは、いつでもできるが、修学旅行は、一生に一度しかいけない旅行だ。」という話をしたのだという。

 クラスメートとは、一昨年来、1年10ヶ月ほど疎遠になっていた次男だったが、この間の蓄積したエネルギーもあって、そして今ひとつ、是非旅行の中で逢って話したい3年生の子がいるという動機もあり、決断した。

  そして電話が終わるなり、早速、妻とともに旅行かばんを買いに出かけていった。

 これで、三男とは違った形だが、次男も新たな段階のスタートを切ることになった。

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4月6日(水) 

  梓川のりんごの木      


 4月24日に、松本市議会の増員選挙が行なわれる。
  4村の議員は、合併の前日3月31日を持って、全員失職。
  4月17日告示、24日投票で、任期2年の選挙。
  各々の定数は、 四賀 1、梓川 2、安曇 1、奈川 1。 そして、2年後に再度、旧1市4村で、松本34定数とともに、各選挙区で、各々の旧村選挙区の選挙がもう一度行なわれる。
 そして、6年後に初めて新松本市を1つの選挙区にした選挙となる。

 新しい松本市の選挙として、私たち議員団も一緒に取り組むことになり、私は主に梓川地域に責任を負うことになる。
  梓川では、三村みちよ前村議が立候補を表明し、すでにその活動を始めている。
  住民の皆さんからご協力をいただき、アンケート活動などを行なってきたが、私にとってもはじめての住民の皆さん。
  地域も知らない中、チラシの配布を行いながら、この間、何人かの方とお話をしている。

  旧梓川村は、形は2等辺3角形、梓川の河岸段丘で、「上の段」と「下の段」にあり、上の段には、りんご畑が一面にある。
  かなりの面積を占めているりんご畑だが、そのりんごの木は、私の生まれ故郷の当時のりんごの木とはまったく違うものだ。
  「わいかりんご」のことは知っていたが、この時期のりんごの畑をこんなに近づいて見るのは初めて。
  背の低いりんごの木で、3、4年で収穫することができ、収穫などの作業が楽にできるという。

  確かに背は低い。
  そして木の特徴は、低木というだけでなく、枝が下に向かって伸びている。
  私の知っている当時のりんごの木が、「Y」字ならば、このわいかりんごは、「傘」。
  そして、この時期だからこそ解ったが、何で枝が下向きかというと、カタカナで「ヨ」の字の形をした金具をはめて、枝を曲げている。
 さらに、りんごの木は接木という事はもちろん知っていたが、その接木は1回だけでなく、2回行い、木が3段になっているのは、初めての発見だった。

  私も小さい時に母とともにりんご作業を手伝ってきた。
 中野市はりんごに産地だった。
  木製の3角梯子に乗り、剪定作業から、てっか、袋かけ、そして収穫と行なってきた。
  消毒の作業も、竹の木の先に2つないしは、3つのノズルがついているもので行なった。
 (SSといわれる消毒車に変わったのも、ちょうどその頃だった。 )

 そして今でも忘れないが、小学校に入学した当初だったと思う。
  高い枝の先のりんごに、袋をかけようとして、手を伸ばし、はしごとともに、弧を描いて地面に激突したことがあった。
わずかの時間だったと思うが、なんとその遊泳時間の長かったこと。 今でも本当に思い出す。
  おやと思った瞬間に、青空と枝が目の前に広がって、それこそスローモーションで、地面に倒れたのだ。
  当時のはしごは、高いものと低いものがあったが、やはり高いはしごに「挑戦」していたためで、高さは優に3mを超えていたと思う。
  泣き出した声を聞いた母親が、すぐに抱きかかえてくれたそのぬくもりは今でも感じている。

 そんな作業と違って、手を伸ばすだけで作業できるだけの高さの木が、一面に植えられていた。
  そんな中でも、木が切られている畑もあり、聞いてみると、跡継ぎの息子さんが病気で亡くなり、りんごの木が切られたとのことだった。
  また、フラン病で木が切られていたところもあった。
 3段の接木だが、一番下が、「アルファー」2段目が、「キュー」ないしは「MQ」という呼び方も初めて聞いた。(いずれ詳しい調査が必要)
 少しづつではあるが、暮らしぶりにふれることができる。

 さて、合併に関しては、梓川村は、住民投票を行なっていない。
  アンケートの結果もかなりの僅差での合併の選択だった。  
  そんな中で、新松本市に合併したわけだが、住民の皆さんの思いはどこにあるか。  
  そのことを多くの皆さんとの対話の中で、つかむことが大事だ。
  全戸配布のチラシを配りながら、りんごの木を見てそんなことを思った。
  話し合いを進めたい。

  8日には梓地区で、市長との語ろう会が行われる。そこにも参加してみたいと思っている。

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4月5日(火) 

  子どもたちの新生活がスタート      


 午前は、小学校、午後は中学校で入学式が行われた。
  今年から、初めて入学式に、菅谷市長の祝辞が、小学校では、「お祝いのことば」、中学校では「祝辞」として、紹介された。
 今まで松本市では、無かったことだが、合併前までは、旧4村では、小学校、中学校が各々1つというところもある中で、今までは村長が入学式に出向いてお祝いのことばを述べていた経過がある。
  今回は、合併初年度ということもあり、このしきたりを廃止することなく、全市に拡大したものだ。
  旧松本市では、教頭先生が、旧4村では、市所長または市所長代理が代読した。

 新中学生向けの菅谷市長のメッセージの部分は、次のようだった。

  「皆さんは、これからの3年間、きっと心も体も大きく成長されることでしょう。 そしてたくさんお友達や先生、地域の皆さんと豊かな交流もされることでしょう。 この3年間その時々に自分自身を振り返り、見つめなおし、自分という存在を確かに育てて頂きたいと願っています。 時には困ること迷うことあるかも知れません。 そんなときは、ぜひ、友達、先生、家族の方、地域の方に相談して知恵を借りて来てください。 人と人とが支えあうことが大切です。」

 ところで、我が家の次男、三男は、いずれも今年は、各学校の最上級生。
  特に三男は、「最上級生として、新1年生を迎えなければならない責任がある。」といって、朝早くから出かけていった。  
  鎌田小学校では、5年から6年に進級するに際して、子どもの数の減少に伴い、4から3へのクラス替えが行われることもあり、新しい担任の先生や新クラスの友達の確認のためもあり、ほぼ9ヶ月ぶりに出かけていった。

 帰ってくるなり、玄関にランドセルをほかりだし、帰宅時に開けたドアが閉まる寸前に、すり抜けるようにさっそく新しい友達の家に飛び出して行った。

 新年度、子どもたちもそれぞれの新しい生活をスタートさせた。

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4月1日(金) 

  「子孫の世代に過重な負担を残さないように」      


 1989年導入された消費税は、今日4月1日を持って消費税導入17年目を迎える。
  この16年間で国民が納めた消費税の総額=約148兆円は、法人3税(法人税、法人住民税、法人事業税)の減収額の累計=約145億円とほぼ同額になる。
  法人税の減収分の穴埋めに、消費税が使われてきた計算になる。
  「福祉のため}といわれて導入された消費税だったが、導入後も医療、年金、介護など社会保障制度は改悪に次ぐ改悪。
  「財政改革のため」という口実も、国と地方の借金総額が、89年に約254兆円だっったものが、05年度(当初予算)には、773兆円、3倍を超えていることで崩れたことは明白だ。

  「福祉のためには、消費税の引き上げはやむ終えない」という議論が、松本市の議会の中でも平然と行なわれるほど世論誘導がされているが、こうした事実を見れば、この議論がいかに根拠がないものかが一目瞭然だ。

  「消費税をなくす全国の会」では、こうした事実を伝えるべくHPを出している。
   「消費税をなくす全国の会」のHPは、ここをクリック   
また、「増税ノー」のパネルに関しては、ここをクリック

 今朝は、「消費税廃止を求める各界連絡会」の皆さんと一緒に、松本駅前で該当宣伝行動を行なった。
  ビルの上の温度計は、1℃を表示していた。
  本当に暖かくなった。

 今日は、もうひとつ。
  新松本市が発足する日だ。
  まつもと市民芸術間で行なわれた合併式典で、菅谷市長は、5分ほどの挨拶の中で、最後に次のように述べた。

  「新松本市の船出に当たり、舵取役の私としては、梓川連携軸田園都市構想を基軸として福祉教育医療などの行政サービスをはかりつつも、公助、共助、自助の理念の上に立ち、われわれの子孫の世代に過重な負担を残さないように細心の注意をはかり、4村の伝統をしっかりと受け継ぎ、市民の皆さんとの協働により、新たなる松本のまちづくりに邁進してまいる所存です。」

 「子孫の世代に過重な負担を残さないように」 印象的な部分だ。消費税問題にも共通する。

  さて、今回の合併。
  政府主導で行なわれ、全国的にもかなり無理をして、駆け込みも含めて行なわれた。
  「平成の大合併」がスタートしたH17年7月、3229あった市町村が、来年の3月末までに1822、43・6%減 約半数となる。
  新松本市も、この合併に向けかなりの無理をしてきた。
  そのしわ寄せが、職員に皆さんにかぶさり、心の病に陥ってしまった職員が少なくないことを聞いている。

 合併が決まり、新市が発足した以上、思いは市長と同じだが、この合併の矛盾はいづれ必ず現れ、そのことが住民自治の前進も含め、新しいまちづくり、未来への発展につながることを確信する。

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