園主の趣味のページ。若かったころと比べて今は聴き方がちょっと違うぞ。深くて重~い“読み”ができないとココロが満たされないカラダになってしまった。ある楽曲をターゲットにする場合、ココロを満たす方法として、作曲家のキャリアとか作曲背景などをある程度把握しておくこと、楽譜を準備し丹念に解説を読みある程度理解しておくこと、優れているとされる演奏(家)を調べておくこと、がまず必要。 (これらはたいていネットでこと足りるので便利な世の中になったものです。) 大切なことは、①その楽曲に作曲家が自身の思考や精神を完璧に(あるいは暗に)表現し得ていること、②演奏家がそのことをよく理解しかつオリジナルな解釈も加えて演奏の中でそれを表現しきれていること、③聴き手である自分がそのことに共鳴できるに足る人間的素養をしっかり身につけていること。この3者のビブラートが一致した時、ココロとカラダが浮き立つ至福の時間が生まれます。 |
|
2025.4.2. |
No46. C.ドビュッシー : フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ |
時空を超えて(タイムトラベルで)行ってみたい都市がいくつかある、ってことを沢木耕太郎のエッセイで読んだことがあります。自分の場合はそのひとつが1900-1914年ごろの花の都・パリです。世紀末を越えて経済的に安定して芸術が花開いてベル・エポック(美しい時代=古き良き時代)と呼ばれていたころのパリ。日本で言えば明治33年から大正4年ごろ。 1900年のパリでは、エスカレーターや動く歩道、自動車エンジンや電気モノなど世界最先端の技術が集結して大盛況となった万国博覧会が開催され、これをきっかけにフランス本来の美質とされる洗練された装飾品や織物、ファッションや家具の分野が興隆することになった(アール・ヌーヴォー)という。ふむふむなるほどなるほど。そしてそれは美術や音楽の分野も同様。ざくっと年表を探ってみると、1908年クリムトの「接吻」、1909年ラヴェルの「ハイドンの名によるメヌエット」、1912年ラヴェルの「ダフニスとクロエ」初演、モネ80点連作「水連」の最晩年、ルノアールもそろそろ最晩年、1913年ストラヴィンスキー「春の祭典」初演...等々。そして敬愛する島崎藤村がパリへ向かったのが1912年でした。花の都パリ。立ちこめるフランスの香り。その空気の中に身を置いてみたいなどと勝手な妄想で遊んでいます(笑)。 しかしそんな美しい時代はドイツがフランスに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発したことで終わりを告げ、そしてC.ドビュッシーは癌と診断されて余命幾ばくもない身となったのでありました。死を意識した中で(?)書いたこの曲のなんて美しいこと...。ドビュッシーはフルートとヴィオラ、ハープという一見異質に見える3つの楽器で香り高い芳醇な世界を見せてくれます。フルートとバイオリン、ピアノの三重奏曲なら沢山ありそうですが、中音域でややくすんだ音色のヴィオラと繊細で典雅な音色のハープを選択するところにドビュッシーの一味違うセンスがあるように思います。その結果、地に足のつかない何とも言えない微妙な浮遊感が全体に漂うところが最大の魅力。この心地よさ、休日の朝のBGMにびったりです。朝のコーヒーではなくて朝の紅茶です。 定額配信サイトとyoutubeでいろんな演奏を聴き放題。いくつかを聴き込みましたが聴き比べサイトで評価が高かったF.ベルナールさん(フルート)、B.パスキエさん(ヴィオラ)、F.カンブルランさん(ハープ)の三重奏はフルートとヴィオラの融け具合(とろけ具合)と弱音のハープの聞こえ具合が絶品でした。 |
![]() |
第1曲「パストラーレ(牧歌)」。フルートとヴィオラのユニゾンの部分。とろけ具合にゾクゾク....。夢見るような美しさ。 |
![]() |
第2曲「間奏曲」。ヴィオラの低い唸りの上にまどろみのフルート。ハープは繊細なアルペジオ。スコアを見ながら曲を分析的に聴こうとする試みはやめて、漂う浮遊感の中に目を閉じて身を任せるのが一番気持ちのいい聴き方。 |
![]() |
第3曲「フィナーレ」。ここ最後の部分。ハープのポン!という合図とともにフルートとヴィオラがなだれ込んで華麗に終わります。変幻自在、春の日に木漏れ日と川の水がキラキラ戯れているかのような、絶品の名曲です。ホメすぎ?。 |
このページのTOPへ |
|
2025.3.25. |
No45. ストラヴィンスキー : 春の祭典 |
ストラヴィンスキーの三大バレエのひとつ。時は宗教以前の原始の太古。春の喜びと大地の鼓動、敵対する部族の襲撃、祖先の霊を呼び覚まして生贄の乙女を捧げる儀式...。管弦楽曲として聴くよりもやっぱりバレエがいいです。YouTubeでいくつもの記録があるのでけっこう楽しめます。 |
![]() ![]() ![]() |
1913年初演時の写真(左)。 ロシアの総合芸術プロデューサー・ディアギレフ、作曲家ストラヴィンスキー、振付師ニジンスキーによる、陶酔と熱狂の世界。YouTubeで3公演を聴き比べ(見くらべ)。中と右は違う公演です。衣装の雰囲気が初演時のものを踏襲しているようです。背景の山々も似ていますがよく見たら違う...。 |
![]() ![]() ![]() |
長老3人。激しい踊りが多い中、長老さんの動きだけは超スローです。 |
![]() ![]() ![]() |
後半。乙女たちが集まって、神に捧げる生贄を決めるシーン(左)。この人が生贄だなってのがだんだんわかってきました(中)。恐怖におののく表情にゾクゾクってなります。瞬きしないでずっと立ちすくんでいました(右)。 |
![]() ![]() ![]() |
生贄の乙女3人。注意して見くらべてみると、動きや体のキレ、表情に微妙な違いがあることに気づきます。(左) 動きがキレッキレの生贄1。 (中) 見よこの表情、怖すぎる。トランス状態に陥る表情がピカ一の生贄2。上の写真の人です。絶品です。世界文化遺産レベルです。メイクがすごい。ペトルーシュカのあのメイクに似ています。 (右) 生贄3。『伝説の初演』というドキュメンタリー映画の中の生贄さんです。瞬きが気になりました。乙女ではなくアラサーっぽい。メイクは普通。手足が長くて踊りはキレッキレというよりしなやかって感じ。踊り死ぬに至る過程は見る者を恍惚の世界に引きずり込みます。 |
![]() ![]() ![]() |
(左) 原始的熱狂の中、錯乱状態になった生贄が踊る踊る。すごいジャンプ力は生贄1。 (中) 最後は崩れ落ちた生贄を祖先の霊たちが抱え、神に捧げる狂信的なシーンで幕を閉じます。 生贄が死んだ瞬間です。 (右) オーケストラの最後の音のコントラバス・パートの音は下からレ(D)・ミ(E)・ラ(A)・レ(D)となっています。D・E・A・D、つまりDEAD(死)です。やるなあストラヴィンスキー。 |
![]() ![]() ![]() |
最近ではオリジナル版にこだわらない、衣装、踊り、背景などが全く違うバレエも多く見られます。春の気配が靄の中(右)。 ほとんどハダカに近いではないか(中)。 全員が白かシルバー系で固めていました。 |
![]() ![]() ![]() |
(左) 赤い人は空から降りてきました。ライブで見たらびっくり仰天したでしょう。 (中) 日本のバレエ団。劇団四季みたいでした。 (右) こちらも日本。振付M・ベジャール版という、今では定型のひとつになっているものだそうです。 |
![]() ![]() ![]() |
オーケストラ版の映像では普段あまり見られない楽器を見ることができます。 (左) ホルンを吹いているオニイサン。楽器を持ち替えてテノール・チューバを吹いています(マウスポインタを上に)。 (中) 右から2番目に何も吹いていない人がいる..。前半・大地の踊りの箇所で吹くのがピッコロ・トランペット(マウスポインタを上に)。これは初めて見ました。 (右) 左から、アルトフルート、ピッコロ、フルート。アルト・フルートの厚みのある低くて太い音がなかなかいいです。指揮者エサベッカ・サロネン氏(マウスポインを上に)。指揮っぷりがキレッキレ |
このページのTOPへ |
|
2025.3.20.. |
No44. O.メシアン : 幼子イエスにそそぐ20のまなざし |
イエス・キリストが生まれ出で来るところから愛の教会を創り上げるまでの壮大なピアノのドラマ。メシアン先生いつもの極彩色万華鏡のような音の虹が乱舞する、静謐な神秘性と頭が狂わんばかりの熱狂に満ちた音の大伽藍。ここまで来ると神の領域。アーメン。 ![]() |
「神の主題」。他に「神秘の愛の主題」「星と十字架(イエスの誕生と死)の主題」「和音の主題」があって、全20曲の中にこれら主題のどれかが現れてきます。 |
![]() |
1曲目「御父のまなざし」の冒頭。超低音・微弱音でさっそく出てきた「神の主題」。ピアノの左手が主題を奏で、右手は装飾音というのがメシアン先生の基本形ですが、曲が進むうちにそんなことは言ってらんなくなる。2時間越える超大曲なので弾き手に極限的な技術体力精神力が求められることは容易に想像つきますが、それは聴き手にも同様。演奏者を代えて毎日集中して聴いているのでここ数日やや寝不足気味です。音大生ならばここで曲の構造とか音の分析なんかをしっかりやるところなんでしょうが自分はそんなことはしなくてただただ音の万華鏡の中に身を浸すだけ。 |
![]() |
第13曲「Noel(降誕祭)」。1小節に4拍とか5拍とかがもう関係なくなります。つまり拍子なし。自分も譜面を追うこともうはしないでただただ聴き入るのみ。 |
![]() |
第20曲「愛の教会のまなざし」。メシアン先生に特徴的な半音階降下と半音階上昇の合体技が炸裂。頭の中が真っ白になります。全曲聴き終えてなかなかのカタルシスです。今年の冬のカタルシスはゴールドベルグとこの曲で決まり、です。 |
このページのTOPへ |
|
2025.3.10. |
No43 S.ラフマニノフ : 13の前奏曲より第5番 Op32-5 |
甘美でメランコリーで息の長い旋律とピアノの達人的技巧が特徴のラフマニノフ。一時期熱心にハマったことがありました。そして先日、ほのぼのと明るい、聴いてジーンとくる小曲を発掘しました。プレリュード作品32-5。これはいい。短いし。 |
![]() |
左手の5連符のト長調アルベジオ。やさしいやさしい。ここに3連符の旋律線が入ってきます。グレン・グールドだったら絶対弾かないメロディ(断言)。 |
![]() |
6小節目。右手の装飾音がとても美しい。一度聴いたら忘れられないフレーズ。ラフマニノフの大曲は重厚でたっぷり聴きごたえがあります。小曲は短調が多くて暗くて悲劇的で聴いてて憂鬱になるって感じで何となく食わず嫌い的に敬遠しておりました。しかしこんな明るい優しい曲も作るんだと思いました。ラフマニノフの生涯をwikidediaでざっくり辿ってみると、元々生真面目で寡黙、成功と挫折、賞賛と非難、安定と混乱の繰り返しの人生。この曲はそのつかの間の安定した時期の、精神状態が大変安定していた時のものだそうです。その時の心理状態が曲となって現れたということでしょうか。 |
![]() ![]() |
定額の配信サイトでこの曲の演奏をいくらでも聴くことができます。しかも短いからいっぺんに何人ものピアニストの演奏を聴けます。1920年ごろのラフマニノフ自身の演奏もあるのでこれは大変貴重です。目を閉じて集中して聴くと、すぐとなりにラフマニノフおじさんがいるって感覚にとらわれます。フジコ・ヘミング女史。一音一音が、重い、そして深い。女史の年輪がなせる技でしょう。これも素晴らしいです。 |
このページのTOPへ |
|
|
2025.3.3. | |
No42. A.スクリャービン : 詩曲「焔に向かって」 Op72 | |
スクリャービン後期の、いよいよここが到達点だみたいな、悶絶超絶ピアノ曲。スクリャービン初期のものは調性やメロディがはっきりしていて馴染みやすいです。それが中期を越えて後期になると調性やリズムが曖昧になってきて一聴二聴してもほとんど訳がわからないものばかりです。わかるものは、スクリャービンが目指しているものが他と全く違うぞということばかり。この曲も一番初めに聴いた時は、「は.?..」「何じゃコレ?」でしたよ。た。そして次第にその毒に体が慣れてくると得も言われぬ快感に身を焦がしている自分の存在に気がつくのでありました。 |
|
![]() |
その「毒」がこれ。「神秘和音」と言うそうです。但し神秘というのはあくまで聴いた時の感覚であって内実は音の周波数比等を規則的に配置するなど極めて論理的なものということです。これはドの音を基底音としたもの。 |
![]() |
|
冒頭。ミの音を基底として静かに鳴り響く神秘和音。どこか知らない世界へ連れていかれそうになる気分。 | |
![]() |
|
右手の3拍(3+3+3)の中に左手は音符5つ。この変態技はスクリャービンの代名詞。 |
|
![]() |
|
さらにすごいのがある。右手9-9-9の中に左手が5-4-4。 | |
![]() |
|
装飾音がだんだん増えてきてスコアも賑やかになってきます......。 | |
![]() ![]() |
|
同じ動機を繰り返しながら少しずつ高さをずらして、音の数を増やしながらじわじわと進行(この点ではボレロもそうです)。後半の右手はトリルの嵐。不気味な焔の揺らめきが大きくなってきます。カンカン鳴らす上段の最高音3連符は左手で(右手の上で交差して)打鍵していました。
この手はロシア(?)のA.カントノフさん。youtubeでは迫力の映像です。 |
|
![]() |
|
最終。巨大な焔が世界を焼き尽くして終わる。左手はリディア旋法という音階。ドレミファソラシドのファをファ#にした音階でこれにはゾクッ!とします。 曲を聴くというより、音響の世界に身を浸すという感じでしょうか。それにしてもこの音響、体に毒が回ります。クセになります。 |
|
このページのTOPへ |
|
|
2025.2.17. | |
No41. M.ラヴェル : ハイドンの名によるメヌエット |
|
1909年、花のパリ。没後100年となるハイドンの遺徳を偲び、パリの月刊ナントカ音楽誌が、ハイドンに因んだ動機を基にして当時のフランス音楽会を代表する6人の作曲家に記念作品を依頼したという。そのうちの1人が我らがM.ラヴェル閣下。 |
|
![]() |
ABCDEFGHIJK........を..ドレミファソラシドに一定の規則に基づいて変換するとこうなるという。つまりH・A・Y・D・Nはシ・ラ・レ・レ・ソ。これが動機。 |
![]() |
|
どこにその動機が隠されているのか、手元のピアノ譜には親切に記してくれています。というか、そもそもラヴェル閣下が自作の楽譜にこう書いたのかな?。 |
|
![]() |
|
この動機は途中からはひっくり返したり、反進行したり、倒立反転したりして出てきます。そう言われないと絶対わからない。どこにヒミツが隠されているのか、パズルのようです。 |
|
![]() |
|
やや甘く気だるく、美しい。ドビュッシーの「海」や「映像」、モネの「水連」の連作なんかもちょうどこの頃ということで、当時のパリの匂い(?)とか空気(?)みたいなものが感じられるような........。 |
|
このページのTOPへ |
|
2025.2.15 |
No40. J.S.バッハ : ゴルドベルグ変奏曲 (聴き比べ) |
小学校上級生のころだったと記憶しているので今から50年も前のことでした。クラシック音楽の右も左も基礎も応用も何も知らない敦少年が父親からもらった誕生日のプレゼントは、LPレコードのグレン・グールドのバッハ・ピアノ大全集でした。その時何も知らずにたまたま聴いたこのゴルドベルグ変奏曲に、何だこれはと得体の知れない鮮烈な感覚を覚えたのが自分のクラシック音楽原体験だったように思います。当時は他に聴き比べるすべがないので、何度も聴いているうちに1955年のグールド22歳のこの演奏が長い間自分の中の標準になっていました。それからおよそ50年、いろんな演奏家のいろんな演奏を聴き比べる環境が整った今、またネットでいろんな演奏解釈の解説をいくらでも見ることができる今、あの時のあの体験は一体何だったとのか!?と追跡調査をすることが可能になりました。 |
![]() |
冒頭のアリア。誰でもが一度は聴いたことのあるだろう有名な旋律。22才のグールドはアリアとその後に続く30の変奏を軽やかに弾きこなす。前半後半をそれぞれ1回繰り返すリピート記号がついているのですが、その繰り返しをしない、しかも早いので全曲が40分弱。まず、グールドは歌うピアニスト。録音にグールドの鼻唄が刻み込まれている。レコード聴いててピアノと一緒にピアニストの唸り声(?)が聴こえてくるというのは確かに「何だこれは」と恐怖に近い体験だったように思う。それからピアノは普通は右手が旋律、左手は和音だろうと思い込んでいるところ、右手も左手も音と音の間をはっきりと区切って、それぞれの音を独立させて全ての音を明瞭に響かせる演奏なので、歌謡曲なんかの流れるメロディー(?)に慣れている身にはその感覚の違いにきっと戸惑ったのだろうと思う。 |
![]() ![]() |
22才のグレン・グールド(左)。ちょっと神経質っぽく見えるところが聴く身にとっては惹き付けられる。この姿、「カッコーの巣の上で」のBilly(ビリー)とイメージが完璧に重なる(古い....)。 26年後、48才亡くなるちょっと前のグールド(右)。 この録音を終了して数か月後に亡くなったという予備知識をもってスコア片手に集中してこの演奏を聴くと、長い曲は普通は眠くなるものですがこの演奏の場合は反対に次第に聴く耳が研ぎ澄まされてきて底知れぬ戦慄と感動で胸がいっぱいになります。日ごろ気楽に聴く演奏ではありません。1年に1回で十分です。 |
![]() |
出だし超静かにゆっくり。そこから音楽が成長して様々に変化をして、最後は再び1曲目のアリアに戻って、超超静かに消えるように終わる........。これはグールドの人生か。譜面の終わりにFineと標記がありますがこれは「これでEnd(終わり)」という意味か(たぶん)。近い将来に訪れる死を予測しながら、最後ゆっくり時を惜しむかのように消え入るように終わる...。涙さえ出てきます。 有名な曲なのでいろんな演奏家が録音にチャレンジしています。そこで所謂「名盤」とされているものをいくつか聴いてみました(真剣に)。まずA.シフさん。早めのテンポと弾むようなリズム感がとてもスリリング。聴いてて楽しいという感じ。盛り上がりの第28変奏以降は大迫力で最後はなかなかのカタルシス。お見事。拍手です。 次はチェンバロ演奏。大好き(だった)なジャズピアニスト、K.ジャレット。なんか、教科書通りではないというか、自由闊達さがいっぱいというか、なんか感性だけで弾いているという感じ。幸福感がいっぱい。チェンバロという楽器の音は耳に優しくて聴いていてとても心地よいのですが、でもピアノと比べるとどうしても表現の幅が狭く感じられるのは仕方がないのでしょう。K.ジャレット氏にはこの曲ピアノで演奏してほしかった。 チェンバロという鍵盤楽器の歴史は古くて、15世紀からあったあったそうです。20世紀に入るといろんなところを改良してモダンチェンバロという鍵盤楽器が発明されたそうです。但し100年前のモダンなので、今ではほとんど使われることなく、今では古いチェンバロがまた主流になっているということです。ではそのモダンチェンバロとは一体どんな音なのか...??。C.リヒター氏のゴルドベルグ.....。残念ながらまともに聴けませんでした。パイプオルガンはプカプカという幸福感溢れる音ですが、このモダンチェンバロはスカスカという音。幸福感ではなく空虚感です。演奏も抑揚とか気持ちの入れ込み様とかが感じられなくて何だかひと昔前のテレビゲームの無機的な音って感じ。1時間は大変苦痛な時間でした。なるほどモダンチェンバロとは廃れる楽器だなと思いました。 |
このページのTOPへ |
|
2025.1.27. |
No39. O.メシアン : アーメンの幻影 |
音に対して色が見えるというメシアン先生。同時にいくつもの音(和音より不協和音がよっぽど多い。)があるとしたらそれはステンドグラスだ。その音たちが刻々と変化するならばそれは万華鏡だ。およそ45分、どこを切り取ってもピアノ2台による極彩色の万華鏡に聴こえます!。不思議な音響効果はかなりクセになります。 |
![]() |
第4曲「願望のアーメン」。まどろむような穏やかさと独特の浮遊感がもうたまらない。それにしても#と♭と不協和音ばっかり。よくこんなの作曲できるな。メシアン先生の脳内回路一体どうなってんだろ??。 |
![]() |
第5曲「天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン」。鳥の鳴き声を五線譜に落とし込むとこうなると言う。鳥たちが賑やかに鳴いたリ飛び回ったり、次から次へいろんなパターンの旋律とリズムが表れ、色彩感豊かに目まぐるしく動き回っています。 |
![]() |
第7曲「成就のアーメン」。第2ピアノが奏でる主題の上に第1ピアノはきらびやかな装飾を奏でる。全曲を通して、天国へ行く体験ができます。 |
このページのTOPへ |
|
2023.2.5. |
No38. O.メシアン : Chronochromie (クロノクロミー) |
クロノクロミーという名前の、不思議な語感がいいです。ギリシャ語の“時間”を意味する「クローム」と“色彩”を意味する「クローマ」を合わせたメシアン先生の造語だそうです。音による、“時間の色彩”か......。音に対して色が見えるというメシアン先生。例えば同時に20の音が聞こえたらその時違った20の色が見えるということで、人間の普通の感覚を超越したすごい感覚というしかないです。これは鳥の鳴き声を採譜してスコア上に再配置したというすごい音楽。これがビックリするほど美しい。いろんな音が、違うリズムで、違う波長で、あっちからこっちから目まぐるしく飛んできます。目をつぶって集中してヘッドホンで聴けば脳内回路の揉みほぐしマッサージ状態となります。スコアなんて見ている場合じゃない。寝る前に聴くのが最も良し。気持ちいい眠りに入れます。右は第6曲「EPODE」。意味は不明。バイオリン12、ヴィオラ4、チェロ2による鳥の唄。各声部を聞き分けることは困難。音の万華鏡の世界に身を浸すしかすべはない。 |
![]() |
このページのTOPへ | |
|
|
2023.1.17. | |
No37. O.メシアン : トゥーランガリラ交響曲 | |
官能と陶酔のひと時。10楽章およそ80分の大曲。“トゥーランガリラ”とはメシアンの造語で、サンスクリット語で時とかリズムを意味する“turanga”と愛を意味する“lila”を足したもので、“無限なる愛の喜び”とか“全身全霊をもってする官能の愛の歌”とかそんな意味合い。サンスクリットと言えばインド。インドと言えばヒンズー教。ヒンズー教の愛の神様といえばカジュラホの彫刻群。実物を見たいな。一番右は上野の国立博物館で見たチベット仏教の男女合体像。とろけます。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
80分間この調子ですのでそりゃもうたまりません。とはいえメシアンはインド人ではありません。20世紀を代表するフランスの作曲家にしてオルガニスト、敬虔なクリスチャンにして鳥類学者であり大学の教育者であり.......と肩書はいっぱい。メシアンの音楽の色彩や響きには時にゾクっとする美しさを感じます。但し、肉感的な美しさというよりむしろ神秘的というか瞑想的なな美しさです。 メシアンという人は、音を聞くと色が見えるという“共感覚”の持ち主だったそうです。ハ長調のドミソの音は白、ト長調のソシレの音は黄、イ長調のラド#ミは青、というように。メシアンが色的に一番好きだったのは嬰ヘ長調(ファ#ラ#ド#)の和音だったそうです。音楽がコンマ秒単位で複雑に動けば動くほど、教会のステンドグラスがまるで万華鏡のようにぐるぐる回って見えたということです。うーむすごい。うらやましい。でも頭狂わないか?。 私はフツーの人なので色は見えませんが、目をつぶって聴けばこの曲のとてつもない音響曼荼羅に頭の中がぐるぐる回るみたいなちょっと異次元的な体験をすることができます。LPやCDをいくつか所有してたまに楽しんでいます。youtubeをウロウロしていたらピアノ・ユジャワンの2016年の映像があるではないか!!。聴いたら(見たら)これが大当たり。映像のカット割りがものすごく細かくて、聴くだけではなくて見る楽しみもあることがわかりました。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
オンド・マルトノという電子楽器が登場。これはメシアンの曲でないと聴けない(他に知らない)。鍵盤を弾く奏法と、鍵盤の前に張られたワイヤーをスライドする奏法(?)で何とも瞑想的な音色がスピーカーから出てくるということです。特殊な楽器とあって世界中見渡してもプロの奏者はそんなにいないようです。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
金管楽器が大活躍。かっこいいです。迫力の映像がとてもいい。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
打楽器も大活躍。特にウッドブロック(中)。乾いた音が独特のリズムを刻む。クセになります。これ何?(右)。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
大太鼓も両手打ち(左)と片手打ち(中)。シンバルもこんなにいっぱい(右)。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
これはマラカスか?(左)。チャイムを打つバチが楽章によって違うことを発見(中・右)。一体どう使い分けているのだろうか??。それともこれ2台あるのか?? |
|
![]() ![]() ![]() |
|
ユジャ・ワン大活躍。激しい音楽だしピアノは打楽器ということがよくわかります。気力と体力と筋力が必要そうです。オッパイはやや小さめか?? |
|
![]() ![]() ![]() |
|
ピアノの譜面めくりのスタッフもいました(左)。自分でめくれるところは自分でめくり、自分でできないところをめくってもらっていました。最強音は親指人差し指をこのようにして鍵盤を叩いていました(中)。花束受け取って笑顔(右)。やり切った感でいっぱいか!? グスターボ・ドゥダメル氏指揮/シモン・ボリバル響というベネズエラの演奏家たちだそうです。そこに中国か(ユジャ・ワン)。この曲のスタンダードと言われる演奏なんだそうですが、うーむ、自分としてはちょっと物足らないです。弱音系の楽章ではユジャ・ワンのピアノと打楽器のキレのよさに恍惚となるのですが、大音響系の楽章では、燃え方が足らないというか、それなりに及第点狙いにキレいにまとめちゃってるというか、ライブなんだからもっと爆発してほしいのにという感じをうけました。そこへいくとこの人の演奏はすごかった!。 |
|
![]() ![]() ![]() |
|
韓国のチョン・ミョンファン氏指揮、フランスのナントカ響。全編通してド迫力、狂乱の渦でハメを外すギリギリ手前の状態で熱くなりっぱなしで通しているところがすごい。やはりライブはこうでないと...。80分間この人の表情を見ているだけでひとつのドキュメンタリーみたいです。最初にこれを聴いて耳が慣れてしまうと他の演奏は聴けなくなってしまうくらいのアクの強さが魅力です。この映像でおもしろいことを発見しました。タムタムを後ろ向きに叩いていました(右)。というか連打していました。横向きより後ろ向きの方が連打しやすいのかな..??。ライブ映像ではいろんなことが発見できます。 |
|
このページのTOPへ | |
|
|
2021.12.21 | |
No36. スクリャービン : ワルツ 作品38. | |
夢を見るような詩情たっぷりの旋律線。とても美しいです。雰囲気は、“春の気配”。厳しい冬を乗り越えて、今まで裸同然だった木々から芽がポン、ポン、ポンと元気よく出てきた時のような、むんむんとした春の気配。ピアノ愛好家の方のブログでは、“恋をした時のドキドキ感”と言っているのもありました。ドビュッシーの『春』もちょうどこんな雰囲気です。情熱的なところはラヴェルの『ラ・ヴァルス』にも近い感じ。ドビュッシーの人生は少なくとも表向きはあちこちに女をつくって問題を起こす鬼畜変態型。ラヴェルは生涯独身で通したほどに冷徹なストイック型。マザコンとも言われているらしい。それが全てではないにしろそんな人となりみたいなものか何となくイメージできるこの二人に対して、スクリャービンという作曲家の人となりがどうもイメージできないのは何故に?、ということをずっと思ってました。スクリャービンは音楽の分野(とりわけ作曲と演奏と前衛性と後進の指導)には世界史上でonly one的な業績を残した人であるにもかかわらず、私的生活の上においては極々マジメなフツーの生活人だったのでFRYDAY的特ダネ要素がなくて、ニュースが仕事(音楽)のことしかなかった人だったんだろうと推察しています。後年、伝記を読んで面白いのはドビュッシーとかラヴェルだけれども、その時自分はどう生きたいかと問われたら自分はスクリャービンですねやっぱり。職人。芸風はショパン風から始まって最後は神秘和音に到達した前衛的芸術家だったけれど43歳の若さで夭折。60まで生きていたら一体何が生まれてきたんだろう........。 |
|
![]() |
|
ワルツと言えばズンチャッチャズンチャッチャの3拍子ですがそんな先入観が通じないこの冒頭。3拍の中に4とか5が入っています。この人変態だと初めは思っていましたが、最近ではこうでなくてはスクリャービンっぽくないと思うようになりました。♭4つの変イ長調という調性がこれまたワタクシ好みです。 | |
![]() |
|
クライマックス。オクターブ弾きの右手の情熱ったらもうたまりません。これぞ官能と陶酔のスクリャービン・ワールド。 | |
![]() |
|
最後の5連符。YOUTUBEで音源をアマチュアから超プロのものまでいくらでも見ることができますが、技巧的に単に“弾く”というだけでなく“情感込めて歌いきる”というレベルに到達しているのは超プロのものだけです。それだけ難易度が高いんでしょうし、ピアノ道を極めようとする人にはスクリャービンは目標のひとつになっていることがよくわかります。 |
|
このページのTOPへ | |
|
|
2021.12.19. | |
o35. ドビュッシーと島崎藤村 in Paris | |
自分、島崎藤村に心酔しています。明治5年に木曽の山の中(馬籠)に生まれ9歳で勉学のため東京に出され、20-30代は波乱の時代。「春」が藤村の青春の墓標なら「家」は「親譲りの憂鬱」を深刻に吐露したもの。そして前半生の波乱の総決算が姪のこま子を妊娠させてしまうという鬼畜行動(42歳)。こま子からその事実を告げられたのが大正2年(1913年)の1月。さらに問題行動なのはその後のこま子のことは全くほったらかしなお且つ4人の幼い子も置き去りにしてのわずか3か月後の4月13日のいきなりフランスへの逃避行。しかも出立までの間は自分の渡仏費用の調達ばかりを気にしていたという鬼畜ぶり。 新潮社から渡仏費用の大金を懐に入れた藤村は、逆に渡仏中に「仏蘭西便り」なるものを出版社や新聞社に寄稿する義務を背負ったのでありました。しかし帰国後にそれが、「平和の巴里」「戦争(第一次世界大戦のこと)の巴里」に再編纂され、藤村はまた「海へ」とか「エトランゼエ」なんかの旅行紀も書いて、その時藤村が見たり聴いたり感じたりした仏蘭西の風景(というか心象風景)を我々は今読むことができるという恩恵に預かることができるというわけです。 図書館で借りてきた藤村全集を読んでいて、藤村がパリ滞在中にドビュッシーの自作演奏会に出かけて実際にドビュッシーの洋琴(ピアノ)の演奏を聴き、ドビュッシーの人となりを観察してそれを文章にしていたという予想もしていなかった事実(というか史実)を発見してびっくり仰天しました。藤村好きですし、ドビュッシーも好きです。でもそれはそれぞれ別の分野であって互いに交わることなど全く想像の外でした。それが互いに交わってしまったのでもうワクワクドキドキ。ネットでいろいろ調べていくうちに、1914年(大正4年)3月21日に藤村が出かけたというドビュッシー演奏会をめぐる、藤村サイドからの研究考察論文とドビュッシーサイドからの研究考察論文の2通りが存在することがわかってそんなの読むだけでちょっとした脳内興奮状態です。面白ポイントとかツッコミどころがいくつもあるので以下箇条書きにて記します。 ① まずその演奏会の日はいつだったのか。藤村が日本に持ち帰った演奏会プログラム(チラシ)には3月10日とある。ところが「平和の巴里」の中の「音楽會の夜其他」では3月21日に行ったことになっている。これがまずは第一の謎。考察論文Aによると、10日の直前にドビュッシーが手にちょっとケガをしてしまったので11日はキャンセルして10日後に新たに演奏会を設定したというもの。ところが研究論文Bによると、1回目公演が3月10日で2回目公演が21日で藤村が行ったのは2回目公演で何故10日のプログラムを持っていたのかは不明というもの。事実はどっちでもいいけど専門の研究論文でこんなに違いが出たら研究論文自体の信憑性を疑わざるを得ないななどと思った次第。まあ自然科学分野と違って実害のない人文科学分野だからこれでもいいのかと....(笑)。 ② 渡仏後1年も経っていないのにフランス語をそれなりに邦訳してしまう藤村の語学吸収力がまずすごい。演奏会の内容は「音楽會の夜其他」によると、1.モツァルトの夢のやうな音楽。2.マラルメの詩を獨唱........、3.「ル・コアン・レ・ザンファン」と題した下に6つの小曲「小さな羊飼い」「人形の窓の下の歌」「雪は踊りつつある」とか.....、 4.「二人の愛人のそぞろあるき」というを歌ふ獨唱、5.彼(ドビュッシー)の6つばかりの小曲、6.最初にモツァルトの曲を奏した四人の人達の演奏.....。 さてここからツッコミどころが満載。 ③ 1番目はモーツァルトの弦楽四重奏曲ト長調で、6番目はドビュッシーの弦楽四重奏曲ト短調が正解。藤村によると「1番目は四挺のヴァイオリンと一挺のセロとで」......とあってこれは明らかに藤村の思い出し間違いで正解は二挺のヴァイオリンと一挺のヴィオラとセロだったはず。6番目も藤村は「三挺のヴァイオリンと一挺のセロ」と言っているのでこれはもう藤村はバイオリンとヴイオラの区別がつかなかった(もしかしてヴィオラという楽器の存在を知らなかった?)と言うしかない。25歳ごろに東京音楽学校(東京音大の前身)に何か月か通ってたことがあるのにもかかわらず、です。 ④ ドビュッシーの「ステファヌ・マラルメの3つの詩」はこの時が初演だったとのこと。いいな藤村。で、ちょうどこの時期、ラヴェルもマラルメの詩を素材にした曲を3つ創作していて偶然にもそのうちの2つがドビュッシーのと同じ詩で、考察論文Cによると、この詩を使うのは俺が先であんたは後や、だから引っ込めなさい、みたいなちょっとしたバトルがドビュッシーとラヴェルの間であったらしいです。自分はフランス語が読めないのでただでさえ難解と言われるマラルメの詩がわかるはずもないのですが、同じ詩が自分の好きな二人の芸術家の琴線に触れたという史実になんかうっとりします。 ⑤ 偶然にもその初演の目撃者となった藤村。「音楽會の夜其他」によると「バルドオ夫人が歌ひ終わって、歌詞を記した紙を手にしながら演奏臺を退かうとすると、盛んな拍手が起こりました。其時(ピアノ伴奏の)ドビュッシーは夫人の背後から簡単な禮の会釈をしましたが、サッパリとした人で少しも聴衆を愚にするやうな容子は無く、左様いふ喝采の渦の中へ自分の音楽が巻込まれるのを迷惑がるかのやうに見えました」とありました。観察者たらんとすることが自分の本分とする藤村の面目が躍如。この時藤村はドビュッシーをこう見たという映像が自分の脳裏に浮かんできて背筋がゾクゾクッときました。自分の好きな藤村とドビュッシーの、縦線と横線が、触れ合った瞬間でした。ブルブル.......!!。しかもそれは100年以上も前のこと。時空を越えて永遠に語り継がれる名場面だと自分は勝手に思い込んでいます。 ⑥ ツッコミどころ満載の「ル・コアレ・レ・ザンファン」。藤村がこう訳したということは演奏会のプログラムにはこういうフランス語表記がされていたことを意味します。ところがこの曲に限ってフランス人のドビュッシーは「Children's Corner」という英語表記をしていて、①それは何故なの?、②それはいつからなの、という疑問が、色々調べても解決されずにいます。また、表題だけが英語表記なのか、中身の6つの曲名までもが英語表記なのかも不明です。これはもう馬籠の゜藤村記念館」とかへ行って(それもこういう資料ありませんかと事前に問い合わせた上で)藤村がフランスから持ち帰ったといわれる1914年ドビュッシー演奏会のプログラム資料の現物を見ないことには解決されないモンダイとなってきました。しかしながらこの曲に定着している「子供の領分」という邦訳は一体何を意味しているのかずっと不明のままでおりました。ドビュッシーは43歳にして初めて得た愛娘のための音楽というか、“自分の音楽の中の子供コーナー”みたいな意味合いでこう命名したようです。そう言われなければ「子供の領分」なんて何の意味かさっぱりわかりません。仏語⇔英語⇔日本語の翻訳なんてそのニュアンスまでも翻訳しきることの難しさをこういうところに思います。たぶんフツーはそんなの無理やろ。なら仏・英・日語に精通することが一番の近道やろとは思うもののそんなのフツーの人はできん特に自分は、という結論に至ったのでもうこれでオシマイ。 ⑦ 「ル・コアレ・レ・ザンファン」の中の2曲、「小さな羊飼い」「雪は踊りつつある」のタイトルを藤村はそのまま、後年(といっても帰国後数年後)に書いた「幼きものへ」中でそのままタイトルとして使っている。よっぽどこの名が印象深かったんだろうと推察できることが楽しい。ちなみに「雪は踊りつつある」は原曲は「The Snow is Dancing」なのでニュアンス的に何かちょっと変。それから3曲目の「人形の窓の下の歌」。原曲は「Serenade of the Doll」ですが、フランス人であるドビュッシーが本来は“for the Doll”とすべくところを“of hheDoll”と誤って表記したのではないかと指摘する評論もあってこれはもうわけわからん。それから、“Serenade”を藤村が“窓の下の歌”と訳したのか、それとも原曲仏語タイトルの“窓の下の歌”をそのまま邦訳してその後“セレナード”という言葉が一般的に標準として使われるようになったのか、その辺が不明。これを解明するには歴史資料博物館へ行くしかない........。 ⑧ 藤村訳語.「二人の愛人のそぞろあるき」。原曲仏語で「Le Promenoir des deux amants」。まず「そぞろあるき」って訳がちょっと変。「散歩道」とか「プロムナード」みたいな意が正解。また「amants」の「愛人」って訳がどうなのって思って調べてみました。すると、恋人とか夫婦とかの愛ではなくて不倫の愛とか禁断の愛とかそういう間柄の関係みたいでした。なので「愛人」が正解。実際この頃のドビュッシーは正妻ある身で浮気中。その相手とのことを音楽にしたのがこの曲だった!。やるなあドビュッシー。ちなみにその相手との間に生まれた子のために書いたのが「Children's Corner」だった。再び、やるなぁドビュッシー。 ⑨ 「5.彼(ドビュッシー)の6つばかりの小曲」。研究論文Aによると、3月10日予定プログラム6曲のうちドビュッシーは3曲を変更して演奏したとのこと。変更した新しい3曲はわかるけど6曲のうちどの3曲が変更になったのかは不明とのこと。ふーん、はいわかりました。 ⑩ 6曲目はドビュッシーの弦楽四重奏曲。そこで藤村は疲れたかと言ってホールの外へ出てしまって連れの二人が聴き終わって外に出てくるのを待っていたということです。ん...?、最後の一曲を聴かなかったのか藤村は。ここで研究論文Aではちょっとした意外な事実を示されたのでありました。即ち、ツレの一人が後世に残した日記、藤村たちがその時支払った座席料金から判断して、何とホール一番後ろの立ち席にいたという事実です。座ってなかったんだ。演奏会が夜9時に始まって終わったのが夜12時とあるから逆算して11時半ごろに疲れて外に出てきてしまったというわけですな。立ちっぱなし2時間半がしんどかったというわけか。 ⑪ 「音楽會の夜其他」によると、「昨年...........、シャンゼリゼの新劇場の方でやはりこの人自身に指揮したオーケストラを聴きました。あの時ドヒュッシーは器楽の演奏者と歌うたひの女の群とを合わせて凡そ百人ばかりを指揮しました。」とありました。「女性合唱」という言葉がまだなかったんだと思います。そして推察するにこの曲は「夜想曲(Nocturnes)」だと思います。 ⑫ いい時に藤村フランスに来たなと思います。「ダフニスとクロエ」も見たっていうし「春の祭典」もやってたはずです。日本人として初めて見た(聴いた)ってタイミングだったはずです。 ⑬ 藤村とドュッシーの共通点に気がつきました。姪のこま子が藤村の子を産んだこと。愛人に自分の子を産ませたドビュッシー。不貞に不倫。どちらも同じ鬼畜人間だった。藤村はフランスに逃避。ドビュッシーはイギリスに逃避。でもそんな芸術家に惚れ込むワタクシって一体..........。 |
|
このページのTOPへ | |
|
|
2021.4.22. | |
No34. スクリャービン : 2つの即興曲作品10 | |
再々度、佳曲を発掘しました。“即興曲”とは、特に形式にとらわれない小曲で、心に浮かんだ楽想を抒情的にかつコンパクトにまとめ上げた雰囲気の曲のこと。“即興曲”という邦訳もいいですが “impromptu”というフランス語がなんだかそれらしくて雰囲気がいいです。心に浮かんだイメージを音にするですか........。いいですねいいですね。 |
|
![]() |
|
10番の1。孤独で厭世的な曲想の嬰ヘ短調から嬰へ長調に転調するところ。右手の力強いガツンガツンガツンが英雄的でかっこいいです。#が6つもあるので弾きづらそうと思うのですが、黒鍵盤が手に意外とすっぽり収まるので慣れればけっこう弾き易いんだそうです。ふーん......。 | |
![]() |
|
10番の2。ここでもスクリャービンの変態度が見てくれます。左手3拍に対して右手10拍とは一体何.....!?。スクリャービンの心に浮かんだ楽想はまずこの1音目のない10連符だったんだと思います。これを楽譜に落とし込む時に左手の和音を作ったんだろうと推察。 | |
![]() |
|
軽快でアップテンポのラストの部分。右手は3連符の1音目でメロディーを作っています。全体で7分ほどなので寝る前にちょっと聴いてその後ぐっすり眠れる感じ....。 | |
このページのTOPへ | |
|
|
2021.4.8. | |
No33. スクリャービン : 7つの前奏曲作品17-3 | |
再び佳曲を発掘。スクリャービンにしては珍しい♭系の曲集。その第3番変ニ長調。左手と右手の拍数が違うのはこの人のいつもの通り。 |
|
![]() |
|
左手8分音符右手3連音符でずっときていたところに後半から右手にアクセルがかかって4-5-6に変化。たゆたうようなこの音の揺れがたまらなくいいです。 | |
![]() |
|
即興的な右手の指の運び。キース・ジャレットと雰囲気が似ています。 | |
![]() |
|
こちら第2番の終わりの部分。この人にしては珍しい(というこの人っぽくない)変ホ長調和音で締めくくり。ドンドーンという英雄的な音の響き。ここだけベートーベンっぽい。しかし左手の3連音符のうち2つの音符を拍の前にずらす意味というのがというのがシロートには不明。 | |
このページのTOPへ | |
|
|
2021.3.23. | |
No32. J.S.バッハ : 無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調 | |
1年に何度か無性に聴きたくなる“座右の曲”とも言える何曲かのうちのひとつです。それはまるで天上の高みのような、美しい音楽、何かを成し遂げたあとの、喜びの音楽。よく言われることですが、組曲6曲のうちの第1~3番まではチェロの演奏技巧的には中級レベルで4番以降は急に難しくなるそうです。さらに、4番以降は表現において掘り下げていく“深み”みたいなものがかなりのレベルで要求されるとだけあって、そもそも年齢の若いチェリストには演奏不可能なものらしいです。で、そういうことは聴き手の方にも言えることだと思います。自分も若い頃に何度か挑戦しましたがいつもどうにもダメで、還暦に近い年になってようやく正面から心底向き合えるようになりました。この音楽の持つ“滋味”みたいなものがわかってくるようになりました。“共感”するようになったかも..........と言ってもいいかもしれません。ようやく.........。 |
|
![]() |
|
1曲目「プレリュード」。堂々としたニ長調の音階でスタート。しびれます。風格だけでなくこれは何だろうか、といえばいいのか。一度聴いたら忘れない、あるいはどこかで聴いたらすぐ思い出せるこのフレーズ。自分の鼻歌のレパートリーのひとつです。この鼻歌が家族に嫌われる.......。でもそれでいいのだ。 | |
![]() |
|
透きとおる高音。天を舞うような高音。もともと5弦のチェロのために書かれた曲だそうですが、演奏家にとって5弦だったらこの高音は楽勝、でも4弦だったら指の動きかなりきついはずです。しかし聴いている方はこの高音のなんというか尋常でない空への“抜け方”、に参ってしまいます。 | |
![]() |
|
第4曲「サラバンド」。重音の響き。ゾクゾクっとします。超スローなので楽譜4行をおよそ5分かけて演奏します。聴いていてこれなら安心して身を任せて無抵抗のまま眠りに落ちることができるという感じ。 | |
![]() |
|
第5曲「ガヴォット」。チェロの上から2弦目の開放弦(たぶん)のレの音のヴォンヴォンとする響きが何といっても聞きどころ。インドのシタールなんかを連想します。チェロの胴体の中で音がグゴグゴと共鳴している様がすごい。 | |
![]() |
|
第6曲「ブーレ」。最高音から最低音まで縦横無尽に駆け巡る。組曲全6曲のフィナーレ。ここまで来たら気分はもうあちらの世。教会のステンドグラス。しかも満天の。しかし極彩色ではなくむしろどちらかというとくすんだ単色系の。 |
![]() |
フランスのM.Coppeyさん。鬼気迫る厳か系というよりはただただひたすら優しい慈しみ系。録音の加減もあると思うのですが、音の裏側の空気感がなによりふくよか。ぷかぷか感というか。この曲いろんな音源がありますがワタクシはこの人の演奏が一番好きかな。無抵抗のままただただ寄り添ってこのまま死んでもいいかも、っていうくらいのレベル。 |
![]() |
ラトビアのM.Maiskyさん。キリスト様的風貌が特徴でこの曲の場合得してます。音の揺らし方が特徴で、真剣にスコア片手に聞くと、・・・・・・ちょっと待ってよ.....それちょっと溜めすぎ......、と前のめってしまう瞬間がいくつもあるのでずが この彫りの深さはなかなかだと思います。LIVEで聴いたらとてつもない感動を与えてくれるだろうと想像。 |
このページのTOPへ | ||
|
||
2021.3.22 | ||
No31. ラフマニノフ : ピアノ協奏曲第3番二短調 | ||
出会って40年近くなる曲です。いろんな演奏家のいろんな演奏をずいぶん聴いてきましたが、ちょっとしたギモンを長い間解決できずにいました。これがその箇所。 |
||
![]() ![]() |
||
第2楽章後半の超・早いピアノのパッセージ。1小節が1秒以下。仮に0.9秒としたら1音が0.1秒。同じド#の音をそんなに早い0.1秒間隔で弾けるのやろかという素朴なギモン。まさか人差し指1本だけで弾いてるんじゃないよなたぶん人差し指中指交互に弾いてるんだよねというギモン。それにピアノ自体、叩いた鍵盤がそんなに早く元に戻るのだろうかという素朴なギモン。 |
||
![]() ![]() |
||
ユジャ・ワンの右手が超人的な早さで連続してド#の鍵盤を叩く瞬間をついに捉えました(左)。人差し指と中指を交互に打っているように見えます。蝶のように舞う右手の指(右)。超人技、いや蝶人技です。 | ||
![]() ![]() |
||
鍵盤を叩く力とペダルを踏む力が合体して椅子から腰が浮く瞬間(左)。第3楽章最後。ラスト10秒。上を向いて恍惚の表情。 |
||
このページのTOPへ | ||
|
||
2021.3.21. | ||
No30. ラヴェル : バレエ組曲「ダフニスとクロエ」 | ||
ギリシャ神話を題材にした、ダフニスとクロエの恋の物語。およそ1時間の音楽・バレエなので筋書きを理解しておくと聴きごたえ・見ごたえたっぷり。 絵画もたっぷり。 |
||
![]() ![]() ![]() |
||
(左) ミレーの「ダフニスとクロエ」。なんと国立西洋美術館所蔵。 (中) F・ジェラールさんの「ダフニスとクロエ」。ルーブル美術館だそうです。 (右) ワタクシ所蔵のLPジャケット。ダフニス15歳のはずなのにごっつい顔しとるのう..。ちなみにダフニスは羊飼いでクロエは山羊飼い、恋敵のドルコンは牛飼いだそうです。 youtubeでバレエのいくつかを見ることができます。1時間も踊りっ放しだと相当な体力持久力が要求されるはず。 |
||
![]() ![]() ![]() |
||
(左) クロエがあっちに行っちゃって寂しがっているところに、「あたしが、ク・ロ・エ・よ......」とダフニスの後ろから目隠しをする初老の夫に欲求不満を抱く熟年女のリュセイオン。このリュセイオンさん何歳の想定か知らんけど、神話ではダフニスとクロエがハダカになって結ばれようとしてもお互い何をどうしていいかわからず結局何ごともなかったそのあとに“オトコとオンナはこうするのよ”と半ばむりやりダフニスの童貞をかっさらったことになっているのですが、このバレエの脚本では時系列がちょっと変わってクロエにダフニスを取られそうになる嫉妬からダフニスを誘惑するオンナとして描かれています。違うバレエでは“ちょっとあんた、アタシを抱きなさいよヤラせてあげる”と言っているようなシーンがあります。(マウスポインタを上に) (中) クロエをさらっていった海賊たちの踊り。さらっていったくせに強姦しないところがさすがお上品な神話の世界。基本白系統の衣装の中での黒衣装がそれらしい。荒れ狂っていました。海賊の首領がこの人か??。跳躍力がハンパないですね。このシーンが終わったところで拍手喝采プラボー状態でした。 (右) バレエクライマックス「全員の踊り」。4/5拍子なのでリズムを取るのも難しいと思います。音楽ではカスタネットも登場。合唱も加わって喜びに溢れたフィナーレ。踊り手さんも髪振り回しています。中央の赤いのがダフニスとクロエ。 |
||
![]() ![]() ![]() |
||
全曲を通してフルートとハープが活躍しています。とりわけ目立つのがアルトフルート(中)。フツーのフルート(左)より1オクターブ低く、太いまろやかな音色が特徴的。楽器を観察するとやや管が太いです。映像もきれい(右)。これは1978年カラヤン&ベルリンフィル。 | ||
![]() ![]() ![]() |
||
音楽・舞踊・美術などの「総合芸術」としてのバレエ作品だったとのことで初演時は作曲家のラヴェルと台本振付家や美術衣装家たちとの目指す方向性とか世界観が一致しないで皆不満で数々の対立や葛藤があったとのことです。ラヴェルは18世紀のフランスの画家が描いたおおらかで素朴なギリシャ神話の世界を理想としていたのに対して、美術衣装家はケバケバして力強い野蛮なギリシャの色彩(左・中)を表現したかったんですと。さらに総監督のディアギレフはまず上演時間が長い上に振り付けも斬新さが足らないと不満を言いさらに合唱団まで加わった音楽には膨大な人件費がかかるとさんざん不平を述べていたらしいです。コスト削減のためかなるほど確かに合唱抜きの第二組曲のみという演奏や録音が圧倒的に多いです。しかしyoutubeで合唱付きの全編フルコースのバレエを見ることができるのはシアワセなことです。この「ダフニスとクロエ」、日本では北杜夫氏が自伝小説の中になぞられて取り入れているし、なんせ絵がいい。これはM.シャガール(右)。 ここ1週間、毎晩見て聴いて堪能しました。 |
||
このページのTOPへ | ||
|
||
2021.3.10 | ||
No29. ベートーベン : ピアノソナタ第30番ホ長調 | ||
偶然にもまた#4つのホ長調。ホ長調という調性は、ハ長調ト長調のような若年的純真無垢的な明るさというよりもむしろ老成的な明るさというか。不安とか恐怖とか怯え、悲しみ、寂しさなどのnegativeな感情を克服したところで始めて得られる暖かみとか安心とか愛情とか感動とか、そういう明るさです。平行調が陰鬱、惨忍、悲壮、不気味などと形容される嬰ハ短調というところがミソてす。ちょっとあとに書かれた嬰ハ短調弦楽四重奏曲なんかは、ベートーベンが自ら自覚しながら持つ陰鬱さや惨忍さを人生的に克服するためにここで全て吐き出してしまおうという意志があったのではないだろうか。 「ミサ・ソレムニス」「変ホ長調弦楽四重奏曲」とほぼ同時期のこの曲、ただただ「優しい」です。溢れる温もりにホンワリと包まれて涙が出るほど「暖かい」です。自分的には、「北の国から2002・遺言」の黒板五郎とイメージがダブります。ベートーベンは「闘い」とか「苦悩」とか「魂」とかそんな形容をされることが多いですが、こういう側面も持つ人だったんだなということにある種の感動をすら覚えます。 |
||
![]() |
||
第1楽章冒頭。サラサラと流れる小川にキラキラと光が反射するイメージ。 | ||
![]() |
||
第3楽章はゆっくりとしたテンポで15分くらいあるぞ。主題から始まって6つの変奏。これその4番目。とても内省的で深淵な楽想ですが、目を閉じて心落ち着けて耳を凝らすとしみじみとした暖かさが伝わってきます。うーむこれほどの音楽なら決定的な名盤とか歴史的な演奏などか幾多も存在するのでしょうが別にそこまで探求しなくてもいいのでこれで十分です。 | ||
このページのTOPへ | ||
|
||
2021.3.8. | ||
No28. スクリャービン : 5つの前奏曲作品15より3番 ホ長調 | ||
この人のピアノ曲は基本的に短いからいいです。いろいろと聴き込むうちにまたまた佳曲を発掘。この人はとにか#系の人です。それも#が多ければ多いほどいいという。中期~後期の作品はちょっと難しいけれど前期のものはメランコリックで抒情に聞かせる感じでこれがスクリャービン・ワールド。 |
||
![]() |
||
出だしいきなりハープみたいな音響。このカタチ、1年後のピアノ協奏曲に出てきます。スクリャービン24才頃の作品ということでその変態さにゾクゾクってきます。 |
![]() |
|||||
本曲における左手の最低音。これもゾクゾクっ!。 | |||||
![]() |
|||||
6/8拍子がスクリャービンの十八番というのがよくわかります。とにかく美しい。1分半ほどなので何度でも聞き返せます。もうすっかり覚えてしまいました。 | |||||
このページのTOP | |||||
|
|||||
2021.2.21. | |||||
No27. A・リード : ハムレットへの音楽④ 「エピローグ、ハムレットの死」 | |||||
「ハムレット」ネタばれあらすじ本によると、自分の父を殺害した男、自分の妹(オフィーリア)を死に追いやった憎き男、その男の名こそハムレットであった。そのハムレットへの復讐を誓うレアーティーズ。 第4楽章は、ハムレットとレアーティーズの剣の決闘の場面。ハムレットがレアーティーズの剣を受けて倒れながらも、最後ガバッと起き上がってレアーティーズとクローディアス王を刺して、そして自らも息絶えていく様子とのことです。終始、暗いです。 |
|||||
![]() |
|||||
第1楽章で出てきた旋律がここで復活。全体を特徴づける、一度聴いたら忘れられない旋律。口笛で唄っていたら家族に“ウルサイよ”と叱られました。 |
|||||
![]() |
|||||
打楽器の鼓動が次第に弱くなり、最後にppで止みます。ハムレットばかりでなく、みんな死んだ...........。 |
|||||
このページのTOPヘ | |||||
|
|||||
2021.2.15 | |||||
No26. スクリャービン : 24の前奏曲作品11より11番 ロ長調。 | |||||
ナントカ長調とかナントカ短調ってのが全部で24あって、それを網羅した小品集の11番目。スクリャービンって人はショパンから始まって中期以降は超人思想とか神秘主義とか神秘和音とか無調主義とかに進化していってでどうも生理的に理解不能なんですが、初期(20歳頃)の楽曲なら自分でもまだ聴ける能力があります。 |
|||||
![]() |
![]() |
||||
前奏曲のひとつロ長調。メランコリックなこれぞスクリャービン・ワールド。けっこうわかりやすいです。右手よりも左手の動きの方が多くて、その左手にも実は違う旋律が隠されているというのが特徴。6/8というのも、らしい。で、スクリャービンといえば自分の中ではユジャ・ワンと決まっています。 |
|||||
![]() |
![]() |
||||
3分にも満たない小曲ですが、最後の部分の和音的終始音の“シ”の音がたまらない。右手小指です。これをガツンと弾いてはいけません。微妙に優しくさりげなくいろんな含みを持たせての恍惚の“シ”の音です。 その“シ”の鍵盤を弾くユジャ・ワンの右手小指。もうワタクシ、たまりません。 |
|||||
このページのTOPヘ | |||||
|
|||||
2021.2.14. | |||||
No25. A・リード : ハムレットへの音楽③ 「俳優たちの宮中への入場」 | |||||
クローディアスが父王を殺したのではないか??、ならばその時と同じ状況状態を演出する芝居をやってクローディアスの動揺する様子を観察してやろうということでハムレットが企画した宮中劇。そんなことは露ほどにも知らないハムレット以外の人たちは宮中への俳優さんたちの入場行進に大喝采。華やかにして煌びやか。リード先生の真骨頂。 |
|||||
![]() |
|||||
トロンボーン⇒コルネット⇒トランペットへと繋がれていくファンファーレ。かっこよすぎてしびれます。 |
|||||
![]() |
|||||
フィナーレ。木管の細かい動きの後ろから金管が出てきて最後スドン!と締めます。 |
|||||
このページのTOPヘ | |||||
|
|||||
2021.2.13. | |||||
No24. ベートーベン : 弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 | |||||
何と言っても冒頭の7音の変ホ長調和音です。ある音楽評論家さんによると、「形式はごくフツーの古典的な4楽章構成で何の変哲もないものですが、そこで歌われる音楽からは構築するベートーベンは全く姿を消し、変わって登場するのは幻想性.....。それは冒頭で響く7つの音で構成される柔らかな和音の響きを聴けば誰もが納得できます。などなど」。 ところがベートーベンはこの時期ほとんど聴力を失っていたようです。音が聞こえなければ和音の響きなんて聞こえるはずはなかろうに!!。およそ20年前に作曲したのが交響曲第3番「英雄」とピアノ協奏曲第5番「皇帝」。これらいずれも変ホ長調。これベートーベンの持ち調性のひとつ(たぶん)。♭3つの和音のキラメキの素晴らしさの残像をベートーベンはずっとずっと抱えていてその思いのたけをどこかで思う存分表現したかったのではないでしょうか。長年暖め続けてきた変ホ長調和音..。 |
|||||
![]() |
|||||
youtubeでいろんな音源を聴くことができるのはシアワセなことです。Suske(ズスケ)カルテットの1970年頃(?)の演奏がこの点ピカ一。冒頭、ガツン!、と弾かないで敢えてmfくらいに抑えて伸びやかにあくまでも優しく。そのシルクのような肌ざわりっていったらもうたまりません。心に染み入ります。 | |||||
![]() |
|||||
白眉は第2楽章。「運命」の第2楽章とか「大フーガ」のクライマッマス部分とかブラームスの交響曲第1番の第3楽章なんかと同じ♭4つの変イ長調ということだけで自分としてはもうしびれる。調性のイメージとしては夢想的とか退廃的とか病める抒情とか一見明るいけど実は暗いとか繊細過ぎて叩けば壊れるとか社交的に見えて実は内向的とか一見健康そうに見えて実は病気持ちで誰にもわからないところで秘かに死に怯えているとか歯を磨いていたら歯が抜ける恐怖の夢を見たとか歩いて前に進もうとしても足が重くて前に動かない恐怖の夢を見たとか.そんなイメージ。同時に作曲されたという「第九」の第3楽章(こちらは♭2つの変ロ長調)と同じ変奏曲形式でひと言で言えば“幽玄”の世界か。もうこの世のものではない。あちらの世のものではないか。彼岸の世界からの何某かのメッセージのように聞こえる。ここぞという場面ではベートーベン必殺の12/8拍子。メロディーが覚えられないのは何故かと思うに、実はメロディーなんてのはそもそもなくて4つの楽器の集合体でその瞬間の“音”とか“響き”を作っているとかそういう感じ。 なのでそんな圧倒的な凄みを引き出すためにはおそらく演奏者に相当な人生経験的なものまでもが要求される超レベルの難曲だと思います。聴く方も疲れますはっきり言って。youtubeでいろんな演奏聴いてネットでいろんな評論読んで遊んでいますが、1961年のBudapest(ブダペスト)カルテットの演奏に尽きます。彫りが深いというかもうこれしかないレベル。ペラペラな暖かさではなくて、厳しくも艶やかで暖かいという感じ。この4人、凄みが違う...。 |
|||||
このページのTOPヘ | |||||
|
|||||
2021.2.7. | |||||
No23. A・リード : ハムレットへの音楽② 「ハムレットとオフィーリア」 | |||||
第2楽章は緩徐楽章ということで鳥肌からは逃れることができます。ハムレットに好意を寄せるオフィーリアの優しい美しい心と、父王を殺した新王への復讐のためにあえて狂人を装うハムレットから冷たくされて(つまりこれはハムレットの演技。)悲しむ心が描写されているとのこと。ふむふむ。 |
この部分の解釈にはいろいろなアプローチがあるようで、例えば①オフィーリアのハムレットへの純粋に切ない恋心とか、②ハムレットのオフィーリアへの実らないことを覚悟している恋心とか、③ハムレットとオフィーリアの悲劇的な最後を暗示する、とか。 吹奏楽のオリジナル曲としては珍しくハープが使われています。このハープのアルペジオに乗って歌う木管の甘美な旋律がなかなかよろし。しかしこの楽団、こんな高価な楽器をよく持ってんな。 |
![]() |
||
以下、ネタばれあらすじ本によるオフィーリアの生涯。デンマーク国王の重鎮の娘であり、王子ハムレットとは相思相愛。しかし身分の違いにより結婚はできず。ハムレットは父である国王を突然亡くし、実はそれは新王となった父の弟クローディアスの陰謀であったことがわかり、ハムレットはクローディアスに復讐を誓うのでありました。そこであえで気が違って狂人になったふりをしてじっと復讐のチャンスを伺うのでありました。敵を欺くにはまず味方を欺け。そのとばっちりを受けたのがそんなこと何も知らないオフィーリアでありました。冷たくあしらわれヒドいことを言われ傷つくオフィーリア。追い打ちをかけるように、ひょんな間違いでハムレットがオフィーリアの父ほ殺害してしまい、オフィーリアはもう精神錯乱状態。悲しみのあまり理性を失ったオフィーリア。花をいっぱいに抱えながら宮中や野原をふらふら彷徨い歩き、そして間もなく川で溺れて死んでしまうのでありました。 そのオフィーリアの物語が古今東西多くの絵画や演劇の題材になったとのことで、ネットで検索してみたら知っているのも知らないのも含めていっぱい出てくる出てくる..。 |
|||
![]() ![]() ![]() |
|||
(左) 金髪を靡かせて花輪を被るオフィーリア。瞳は虚ろで何処を見てるのか判然としない。A.ステヴァンス作。1887年。 (中) 花を摘むオフィーリア。この表情、尋常ではない。K.E.マコフスキー作。これ見たら上村松園のこの絵を思い出した。(マウスポインタを上に。) 「焔(ほのお)」。情念が炎のように燃え上がり身を焦がす女性。(オフィーリアとはちょっと違うけど。) (右) オフィーリアからインスピレーションを受けて描いたという「シャロット姫」。悲壮感たっぷり。J.W.ウォーターハウス作。1888年。 |
|||
![]() ![]() ![]() |
|||
(左) 荒れ狂う松たか子。ハムレットは真田広之。1998年。 (中) 虚ろな目をした満島ひかり。ハムレットは藤原竜也。2015年。この表情、これに似ている(?)。(マウスポインタを上に。) 鰭崎(ヒレザキ)英朋の「蚊帳の中の幽霊」。こんな幽霊ならぜひ出てきてほしい.....。 (右) 正気でない表情のイギリスのD.リドリーさん。2018年。ちょっと違うけどこういうのもある。(マウスポインタを上に。) 江戸時代の般若の面。 |
|||
![]() ![]() ![]() |
|||
(左) ミレーのオフィーリア。半開きの口。生気なく魂さえ抜けているかのような.........。夏目漱石先生がロンドンの美術館でこれを見てインスピレーションを得て小説にしたのがあの「草枕」。ん..........!?、何でここに樹木希林が..........!?。謎。(マウスポインタを上に。) (中) こちら安らかな表情のオフィーリア。L.L.デュルメル作。1900年。 (右) この色彩、一目見てこれはルドン。はかなく散っていく夢.......。ルドンもういっちょ。(マウスポインタを上に。) 題材がルドンにとってインスピレーションをいっぱいもらえるものだったのでしょう。ルドンはオフィーリアを素材にした絵画をいっぱい描いています。 |
|||
![]() ![]() ![]() |
|||
(左) うふふふ..........と薄く微笑んで水面に浮くオフィーリア。目に狂気が宿っているようにも見えてちょっとホラー.....。G.BUSSIERE。1900年。 (中) 水底へ沈んでいく人魚のようなオフィーリア。何の感情も見てとれず、ただただ沈みゆくだけ。P.スティック作。1894年。 (右) ネットで発見。誰作?。「水も滴る美しき死に様。オフィーリア・イラスト特集」よりパクリ。しかしこの人ただ昼寝しているだけじゃないのか........??。 |
|||
このページのTOPヘ | |||
|
|||
2021.1.30 |
No22. A・リード : ハムレットへの音楽① 「プロローグ、エルノシア城とクローディアス王の宮中」 |
シェイクスピアの戯曲を題材にした吹奏楽曲。戯曲の中からいくつかの場面を抜き出して描写したもの。その第1楽章。40年以上前に始めて聴いてそのドラマチックさに鳥肌が立ちました。ネットでこの曲のフルスコアを4,000円ちょっとで販売しているところがあることがわかってすぐに購入した次第。戯曲「ハムレット」のあらすじを頭に入れて、この曲の場面ごとの解説を読みながら、さあ深読み(深聴き?)を始めよう。 |
![]() |
冒頭。いきなり打楽器が爆発。闇夜のお城に突然カミナリがズドドドンと爆弾のように落ちてきたかのような出だし。デンマーク王(ハムレットの父)が弟のクローディアスに殺されるという戯曲の始まりと、これから始まる悲劇を予感させる重々しさ。2小節目にヴィブラフォン(鉄琴だねこれ)、シロフォン(こちら木琴)、ベルにチァイム(この違いわからん。)の強打!。 |
![]() ![]() |
3小節目。アルトサックス・ソロ。殺された王の幽霊が出る場面の始まりということで、なんだかおどろおどろしい。4小節目のトランペットのソロは一度聴いたら忘れられない劇的なパッセージ。第4楽章にも出てきて、この曲を象徴するような旋律。 |
![]() |
アルトサックスからテナーサックス、バリトンサックスへと引き継がれていく下降音階。中に沈みゆくこの暗さがたまらない。 |
![]() |
後半は打って変わって堂々としたお城の音楽。クローティアス王の戴冠式の場面だそうです。威風堂々、かっこよすぎ。木管の細かいトリルと金管の華やかなファンファーレ、打楽器群がキラキラときらびやか。次第に厚みを増しながら最後のクライマックスへ。シロフォンとチャイム(鐘だわこれ。)の輝きにシビれます。16分音符と3連符なので音が重なり合わないで聞こえてくるところがミソです。最後、鳥肌が立ちます。 |
このページのTOPヘ |
|
2020.4.29. |
No21. 藤井泰一郎作詞 / J.マクグラナハン作曲 : いざたて戦人よ |
先日家のポストに郵便が入っていました。「川高同窓会報」。どーせまた寄付金の案内だろと思ったらやっぱりそうだった。「同窓会費」「奨学財団」「植樹会」と3種類もあるぞ。寄附者ご芳名リストなんか見ると覚えている名前が何人かあって、なるほどリストにこうやって載せますよというのが寄附意欲を生じさせる作戦なんだなと思った次第。まあそれはそれとして..。 埼玉県立川越高等学校。創立120年を迎えた伝統高であります。今となってはレアな男子校だぞよ。その「川高同窓会報」をめくってみたら、うわっ!!、「120年の伝統に誇り」という大タイトルの次に記念式典での梶田隆章氏の記念講演の模様が詳細に記されているではないか.....。こんなのやってたんだ知らなかった....。写真や記事で梶田先輩の講演や今の学校の様子、学園祭や部活の様子なんかをよーく見ていたらなんだかいろいろとこみ上げてくるものがありました。いゃ~...、過ぎ去った青春。過去形です。しかしそこでふと出てきたのがこの「いざたて・・・・・」のフレーズ。 |
![]() |
4声合唱ですがそれが混声だったり男声だったりいろいろ。男子校に入って知らぬ間に下から2番目を勝手に歌わされたけど男声のハモリがすごくて初めて歌った時は武者震いがしました。勇ましくってテンポがよくって歯切れがよくってとっても好きでした。 |
![]() |
軍歌とか進軍の歌みたいなタイトルですが、もともとはキリスト教の讃美歌でいくさびとというのは神の兵士という意味だということを初めて知りました。今ではあちこちの合唱団で歌われている定番中の定番とのことですが、いいものはいいです。過去から未来に歌い継がれていくであろう、シビレる音楽であることに違いはありません。 |
このページのTOPヘ |
|
2020.4.19 |
No20. ベートーヴェン : 交響曲第6番「田園」 |
若かりし時にクラシック音楽に目覚めるきっかけとなった曲のひとつです。父が買ってきたのは当時無敵を誇ったカラヤン&ベルリンフィルの1963年録音のLP。あまりの美しさにカンドーを覚えていた自分がいました。20代から今に至るまでいろんな演奏家の「田園」を聴いてきましたがどうもいまいち。はじめに聴き込んだ演奏が自分の中での“標準”になってしまって他のものを受け付けられなくなってしまったのでしょう。でもそれはそれでよし。 実はずっとずっと、あるひとつのことについてギモンを持っています。ベートーベンが好きだったというその“田舎”とは、(ベートーベン自身は“楽園”と感じて愉快だったかもしれないけれど)果たしてそこに住む農民たちにとっても“楽園”だったのか、ということ。 この交響曲、5つの楽章があってそれぞれに副題がついています。 ①「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」。 ②「小川のほとりの情景」。 |
![]() |
こんな気難しい顔してどこが愉快なの?とつっこみたくなります。こんな人が田舎をウロウロしていたら怪しい人が徘徊しているなんて思われなかったのか?、田舎の人たちとコンタクトというかどれだけコミュニケーションがあったんやろか?ということが素朴なギモンです。 ④「雷雨、嵐」の自然描写はいいとして、③「田舎の人々の楽しい集い」と⑤「牧歌・嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」ですが、田舎の人たちは日頃からそんなに楽しかったんやろか、嵐の後ってそんなに喜ばしい感謝の気持ちを持つもんやろかというのが素朴なギモン。 |
![]() ![]() |
ベートーベンは1770年の生まれ。「田園」の作曲は1808年ごろ。1789年にフランス革命のあってその後皇帝の即位宣言をしたことがフランス人以外のひんしゅくを買ったころ。日本で言えば江戸時代後期文化文政のころ、鎖国中の中ロシアやイギリスが来たり間宮林蔵が樺太を探検したりとかそのころ。日本では士農工商とかいって農は士の次ですが実際的な位置農工商の一番下で、農の多くは豊作不作に関わらず年貢を搾り取られる小作人であって、地域にもよるのでしょうが、豪農地主自作農ならまだしも貧農の生活レベルは決して豊かではなかったはず。ではドイツはどうか。まずは、まず当時はドイツという国はなかった。プロイセンという国が大きくなったり小さくなったり神聖ローマ帝国領になったりとヨーロッパの近世史は忙しい。世界史教科書によるとこのころのドイツの農民は地主貴族に地代や労役を納める義務を負った小作農であり永久に土地に縛りつけられた農奴であったとある。ふーむやっぱりいいことは書いてないね。 「田舎の人々の楽しい集い」というのは意味的に正確ではなくて前段に「つかのまの」とか「1年に何日かの」とかの意味を込めないといけないと思うのですがいかがなものであろうか。「嵐のあと」つまり台風のあとなんかは農産物などは吹き飛ばされるだろうし洪水浸水被害なんかも今とは比べものにならないほどひどかっただろうし、台風のあとに感謝の気持ちなんてことはそもそもあり得ないのではないと思うのですがいかがなものであろうか。 つまりベートーベンは田舎のいいところだけを切り取っている、あるいは田舎の理想像を勝手に作り上げているのではないかというのが自分の解釈でありまする。門馬直衛氏の評論によれば「ベートーヴェンは『森の中で自分は幸福だ。樹々は語る。おお神よ、なんと素晴らしい……』『どの樹もみな自分に語るではないか。聖なるかな。聖なるかな。森の中は恍惚たり』などと書き付けてある。こうした心情を音楽で語ったのがこの第6交響曲である。」らしい。なるほど「運命」が極度の精神的緊張の噴出であるとすればほぼ同時期のこの「田園」で緊張を少しでも弛緩させないと精神的に身がもたなかったのではないかと。そのために田舎の農民の実際の喜怒哀楽はあっちに置いといて、自分なりの桃源郷を描きたかったのではないでしょうか。つまり「田園」は現実から「逃避」したかったが故の音楽とも言えると思います。そう考えるとベートーベン中期を「煩悩」とか「迷い」と形容するとすれば後期の「第9」や「ミサ・ソレムニス」はさぞかし「歓喜」とか「勝利」、そして最晩年の弦楽四重奏曲なんかがずばり「解脱」とか「涅槃」と形容できることが納得いきます。200年という時空を越えて現代に聴き継がれるって、すごいことだと思います。 |
このページのTOPヘ |
|
2020.4.3. |
No19. スクリャービン : ピアノソナタ第4番嬰へ長調 |
スクリャービンの作品の多く(というかほとんど)はピアノ曲。それもソナタや前奏曲とかエチュードとか短いものばっかし。なのでちょっとした時間の中で聴けるのがけっこううれしい。この人初期中期後期とあって初期は濃厚で甘美なエロさムンムン、後期~晩年は神秘和音とか無調とかで聴くのにちょっと難しい。初期の幻想系癒し系の音楽はとってもいいのだけれど短調の曲が多いのこともあって時に気分がかえって重くなったりもします。 そこでこのソナタ。明るい長調で書かれていて、前半の気だるい表情はいつもの通りであるものの後半の明るく力強いノリノリの躍動感と爆発感は、「元気をもらう」とか「よし俺もやったる」とか「おめーがそーなら俺はもっとすごいぜ」とか「バカヤロウ落ち込むヒマがあんのやったら走れ走れ」とか「無我夢中でやり切ったらそこにスバラシイ世界があるからツベコベ言わずとにかくやれやれ!」とかいうストレートに前向きな気持ちをもらえる。根が基本的にネカティブが人が聴いたら一時的な効用はあるだろうが、根が基本的にポジティブな人が聴いたらその時テンションが200%以上まで増幅するのではないか。 故・志村けんの演技の爆発力とこの音楽の爆発力には何か通底するものがあるのではないかということをここ2-3日で感じてました。ヒゲダンスってのやるからそのバックミュージックにしろと言って志村けんがプロデューサーに持ってきたという原曲「Do Me」を聴いた瞬間、志村けんとスクリャービンは同類だと確信しました。ベースギターの低音に対してピアノ左手の低音強打。ノリノリの低音、イケイケの低音、バクハツの低音..........。混沌としたものの中から見せたいものを掬い出して見事に描き切ってみせることのできる天性の技。故・志村けんの天性の才能でありスクリャービンの天賦の技であった。酔いもまわってここまで書いて訳わからんくなってきた.........。 いいものはいいです。 |
![]() |
左手は一瞬のうちに2オクターブを上下するので1段の譜面では書ききれなくて2段になっています。よく弾けるなこんなの。左手はメロディーラインと伴奏というか和声。指も違うはずだし、メロディーラインをいかに上手に弾きこなせるかが勝負。 |
![]() |
ソナタ後半。ノリノリのリズム感。ジャズっぽいというか即興っぽい。 |
![]() |
なんかの評論に書いてありましたが、スクリャービンは複数の音をブレンドして和声を作るというより、複数の音をブレンドして新しいひとつの音を創造するなんてこと言っていました。うーむなんとなくわかる気もするけれどよくわからない。 |
![]() |
スクリャービンのピアノ譜をいろいろ見ていると、この人3連符系が好きというか得意という印象。6/8とか12/8とか。それをベースにあとは縦横に飾りまくっているというか。ソナタ4番のエンディング。左手の筋力がない人には弾けないと思います。なるほど確かにピアノは打楽器だし、この迫力を出し切るには筋力必要ですね。 |
このページのTOPヘ |
|
2020.3.25 |
No18. スクリャービン : ピアノソナタ第2番「幻想ソナタ」 |
「幻想」という名前がついているだけあってなんせロマンテイック。齢20そこそこでこんな曲を書いてしまうんだからこの人一体何者??って思ってしまいます。憂いのある美しい旋律線と微妙な不協和音のハーモニーは時としてゾクゾクッとくるほど官能的で、うーむこれがスクリャービンワールド(?)か。後の新興宗教的な神秘和音とかそっちの方はどうもまだちょっと難しいですが、この初期の時代の濃厚なロマンチシズム(?)は文句なしに魅力的。 |
![]() |
ユジャ・ワン2013年。終始この恍惚の表情でやられたらたまらない。 |
![]() |
左手右手のクロス。左手が右手よりも高い音を弾く一瞬の出来事。先日、違う曲を見ていたら右手が左手の上を弾く瞬間を目撃。 |
![]() |
初めてこの箇所を聴いたとき、キース・ジャレット伝説の「ケルンコンサート」第1章の一部分に似いてる!と思いました。右手の半音下降音階が即興的でジャズっぽくてなんともいえないいい感じです。「ケルンコンサート」ははるか遠い昔の高1の時に音楽好きの友人がこれすごいから聴いてみと教えてくれたもので、そのLP2枚組は今でも大切に保管してある自分の宝物のひとつになっています。youtubeでこのソナタをいろいろなピアニストで聴いていますが、この部分はおそらく割とシンプルで弾き易いからでしょうが、サラっと流して弾いている人もいれば情緒込めて歌っている人もいればどうだこれならばメロウだろうと歌い過ぎてかえって自爆気味になっている人もいたりしていろいろで面白いです。 |
![]() |
右手の部分は甘美な旋律線と装飾線に分かれています。その旋律線を弾く指が親指だったり違う指だったりするので、強弱をつけて旋律線をいかに浮き立たせて装飾線で飾り込むかが恐ろしく難しい箇所みたいです。youtubeでいろいろと聴き込む限りでは確かに旋律線の聞こえてこない録音も少なからずあるようです。さすが難易度特A級といわれる難曲。 |
![]() |
前半部分の最後。右手左手が拍数が全く違うところがスクリャービン。右手は限りなくウツクシイ。よーく聴き込むと左手の低い音もちゃんと聞こえてくる。こんな曲弾きこなせる人って世の中にどれだけいる??。 |
このページのTOPヘ |
|
2020.1.16 |
No17. スクリャービン : ピアノ協奏曲嬰へ長調 |
去年からスクリャービンを聴いています。1872年生まれのロシアの作曲家。同世代のラフマニノフの作風がそんなに変わらなかったのに対してスクリャービンの作風は年齢と共に進化変化。30にもならない時からニーチェ哲学だの超人思想だの神秘主義だのとあってよくわからない。でも初期(25才くらいまで)のピアノ曲はとってもわかりやすいし文句なしに美しい。甘美といってもいい。ショパンとラフマニノフを足して2で割ったらこうなるなんてよく言いますがホントにそうです。前奏曲11の11とかピアノソナタ2番なんてこれはもう美しすぎる。この人、稀代のメロディメーカーであると同時に音色の装飾屋さん。しかもピアノ弾きにとっての超絶技巧度合いは多くが特Aランク。スコア片手に毎晩いくつかの短いピアノ曲を聴いています。こりゃ気持ちよく寝れるわ......。 ところが次第に、ひょっとしてこいつ変態か?、と思うようになりました。そう思うに至ったポイントを2点、以下に記します。 |
![]() |
![]() |
|
第1楽章、#3つの嬰へ短調。全体的に控え目で暗めの曲想の中に時おりふわりと現われる、平行調のイ長調の右手の旋律がたまらなくいいです。長調でも澄み切った明るさではなくてどこか憂愁を帯びた切ない明るさ。なるほどスクリャービンにやられてしまう人はこういうところにやられてしまうんだと納得。 |
|
![]() |
|
第3楽章クライマックス。appassionatoとは情熱的に、の意味。右手が2、左手が3で鍵盤を打ち付ける。熱いっす。燃えてますね。 |
|
![]() |
|
変態レベルその1。#が6つの嬰へ長調という調性の選択。#がないのはシの音だけ。ピアノのほとんどが黒鍵ではないか。ハ長調とかト長調とかヘ長調なんかの単純な調性から始まって年輪を重ねていくにしたがって#多し♭多しのビミョーでデリケートな調性に嗜好とかスタイルが移行していくのがフツーですが、この人、20代前半の若さのうちに、こんな調性を嗜好するところがピアノオタクっぽい。前後の作曲を調べてみたらこの人、#5つや6つの曲が多いです。 変態レベルその2。12/8拍子は普通ですが譜面をよくよく見るとなんじゃこりゃ。1拍目左手4に対して右手7!?。2拍目左手4に対して右手6。続いて3に対して7。4拍目は3に対して6。こんなのよく弾けるな....。 |
|
![]() |
|
左手6に対して右手7。さらに左手5に対して右手6。録音状態のいい演奏を聴くと、左手と右手がしっかり分かれて聞こえてくるのでちょっとしたコーフンものです。 |
|
![]() |
|
極めつけはこれだ。左手5に対して右手は1とか2とか3とか。そして左手の中でさらに2と3に分かれているのがオドコキ。この人がただ者ではないことが証明。 |
|
![]() |
|
第3楽章。これグリッサンドっていうんだっけ??。突如ハープみたいな響きが出てきてオドロキ。25歳の作っていうけれどこれは年齢詐称にちがいない。もしくはよっぽどの天才か。 |
|
このページのTOPヘ |
|
2019.2.19 |
No16. M.デュリュフレ : レクイエム |
本来は抑揚のない男声単旋律のグレゴリオ聖歌に和声をつけて4声にして美しい伴奏をつけて20世紀によみがえった!。うーむ素晴らしい音楽を発掘しました。レクイエムの詳しいことはわかりませんが、この柔らかいぷかぷか感、暖かいふわふわ感がたまりません。脳内回路に心地よすぎ。 フランスの地方都市の、荘厳というほど厳めしくはなく、田舎臭いというほど小さくはない、ゴシック建築様式のローマカトリック教会。年代を感じさせるややくすんだステンドグラスから柔らかい光が差し込む。静謐にして温もりのある空気。祭壇にはイエス・キリスト。目をつむり静かに手を合わせ祈る人々。柔らかなパイプオルガンとグレゴリオ聖歌の響き。そうですこれですよこれ.....。 |
![]() |
冒頭「イントロイトゥス」。弦楽器のさざ波のような優しいアルペジオに乗ってバスが歌いだす。このぷかぷか感がたまらない。ずっとこのままでいたいという感じ。 |
![]() |
「サンクトゥス」。旋律自体はグレゴリオ聖歌そのもの(よく知らないけど)。しかしここでは女性合唱がハモっている。しかも弦とハープの伴奏つき。合唱も伴奏も表現が過度でないところがいいです。合唱は伴奏にそっと寄り添い、伴奏も合唱にそっと寄り添うって感じ。そうか弦とハープのアルペジオがこのふわふわ感をもたらすんだ。 |
![]() |
拍子が9/8➡10/8➡6/8と変わるからこれはあのO.メシアン状態か(同じフランス人だし。)と思ったらそうではなかった。そもそもグレゴリオ聖歌ってのは拍数とか拍子とか調性などの概念ができる前のものだから、それを写譜したらたまたまこうなったってことだ。悪く言えば「安定しない」、良く言えば「独特の浮遊感がある」っていうのはこういうことですねきっと。30分ほどの曲なので寝る前にイヤホンつけて聴くのにちょうどよし。 |
このページのTOPヘ |
|
2019.2.17. |
No15. M.ラヴェル : 左手のためのピアノ協奏曲 |
第1次世界大戦で右手を失ったピアニストから依頼されて作曲したラヴェル最晩年のピアノ協奏曲。この曲はただ流してきくだけではもったいない。作曲技法やラヴェルの当時のmind的なことはわかりませんが、スコアを見ると複雑不協和音と複雑転調だらけ。ピアノ譜を見ると、ん?、なにこれ、これを左手1本で弾くって!?、そんなことできる人っているの!?って感じでピアニストにとっては超絶技巧だろうすぎてなんだかとんでもない。ラヴェル最晩年の残りの人生全てを注ぎ込んだ(?)という重い曲想もそうですが、youtubeでピアニストの左腕が鍵盤の一番左から一番上まで縦横無尽に駆け抜ける様子を見ることが一番の面白みです。 |
![]() |
左手の日ごろの筋トレの成果が試される(?)冒頭部分。低音の迫力。 |
![]() |
フツーは上が右手、下が左手でしょう。左手1本で同時に8分音符と3連符を弾くというのがすごい。 |
![]() |
1小節の中に高音の旋律と低音の旋律とアルペジオが混在。両手で弾いたら簡単?、いや違うんだ、片手で弾くからすごいんだよ。 |
![]() ![]() |
グリッサンドで鍵盤の一番左から一番右まで一気に。約1秒ちょい。youtubeではこの左手に興奮。フランス人のエレンさんの左手です。(左) iPadを譜面台に置いて右手でちょんちょんめくっていく中国のユジャ・ワン。うん、確かにこの曲なら右手でめくれるわ。(右) |
![]() ![]() |
なかなか見ることができない楽器をyoutubeでは見ることができます。コントラファゴット(左)。管長は6メートルあるそうです。グルグル巻きにして重さが6キロあるそうです。高級なものは500万円するそうです。吹きつける息の量が普通のファゴットの2倍必要とのことで、奏者氏をよく観察していたら、息継ぎのところで顔を真っ赤にして思いっきり息を吸い込んでいたりします。体育会系の楽器ということがわかっておもしろかったりします。 バス・クラリネット(右)。低音域を目立たないで支えているイメージが強いですがこの曲では主役級の扱い。さすがは魔術師ラヴェルさん。魅せてくれます。 |
このページのTOPヘ |
|
2019.1.16. |
No14. ヒンデミット : 交響曲「画家マティス」 |
またヒンデミットである。やっぱ好きなんやなあと自答。 マティスとは、19世紀末のセザンヌやゴーギャンやゴッホの後のあのアンリ・マティスのことかと思ったらそうではなく、16世紀のドイツの画家のマティス・グリューネヴァルトって人のことみたい(知らない人)。室町時代か安土桃山時代だぞ。オランダのあのフェルメールより1世紀も前の人のようです。そのグリューネヴェルト画伯は、キリストの生と死そしてその後のアントニウスという聖人が受けた試練を題材として祭壇画に描き、ヒンデミット氏はそれを見て琴線に触れるものがあったのでしょうか、そのゾクゾクっときた感覚を音楽化したというもの。そしてこれがまたなかなかいいです。聴いてるこっちもゾクゾクっ.......。 その祭壇画の一部。「天使の合奏」。キリストの生誕を祝って天使が音楽を奏でるシーン。 |
![]() |
第1楽章「天使の合奏」。 ![]() |
ほんとにこりゃ天上の音楽じゃ。冒頭からふわ~っとした神々しい雰囲気。弦楽器のぷかぷかとした息遣い。その上にまろやかな3本のトロンボーンの響き。うっとり......します。 弦楽器のこの不思議感は、ひとつにはリディア旋法という、長調短調より古い教会旋法(グレゴリオ聖歌)によるものだそうです。ドレミファソラシドをちょっと変えて、ドレミファ#ソラシドとなるのが基本。うーむなるほどちょっと変わってる。不思議な感覚。 ところで上の絵でヴィオラ・ダ・ガンバを弾く天使さんちょっと変です(拡大はマウスポインタを上に)。2点においてギモン。まず右手で弓を持つ上下が逆?。手の甲を下にして弾いてる。バイオリンやチェロなんかは手の甲が上なのに。でもこれはネットで調べるうちに納得。ヴィオラ・ダ・ガンバという楽器はこういう弓の持ち方をするんだそうです。もうひとつは、絶対間違い。弦を持つ左手。この天使さん弦を内側に向けてる。外でしょ外。グリューネヴァルト画伯の間違いを発見してしまった。 |
竪琴と同じく、トロンボーンは古くは天使の楽器というそうです。古い絵画にもトロンボーンが出てくる出てくる。天使がトロンボーンを吹いてる吹いてる。 |
![]() |
![]() スコアの中でこういうところの意図がわからない.......。全体が2/2拍子なのにホルン、トロンボーンだけ3/2拍子。何故に??。 ![]() 第3楽章「聖アントニウスの誘惑」。キリストの弟子・聖アントニウスが悪魔から誘惑されて信仰心を試される場面。マティス・グリューネヴェルト画伯は画家としての自らの苦悩を重ね合わせて絵にした。ヒンデミットがその絵から受けたインスピレーションがこれだ。冒頭のこの部分はたぶん悪魔のささやきのテーマだろきっと。弦楽器の渋い響き。 ![]() ヒンデミット節がここでも炸裂。幾重ものフーガになってテンション上げて力強く完結。厳しい試練と苦難の後の勝利の雄たけび。しびれますね。 |
このページのTOPヘ |
|
No13. オリヴィエ・メシアン : 世の終わりのための四重奏曲 |
2019.1.9 |
![]() |
![]() |
4半世紀以上前に、(当時の職業柄もあったはずですが、)妙に南仏に憧れていた時期があって、会社を2週間年休とって初春の南仏アビニョン、アルル、マルセイユを旅したことがあります。パリからわざわざ夜行寝台に乗ってアビニョンに着いたのは朝6時過ぎだった。Avignon(アヴィニョン)。サン・ベネゼ橋がランドマーク。14世紀にローマ教皇が住居を構えたところでもあります。 この曲についてちょっと書こうかなとと思ってO.メシアンについていろいろ調べてみたらいろんなことがわかってきました。まず、1908年12月10日南仏アビニョン生まれ。おおっ!、誕生日が自分と同じではないか!!。このことだけで親近感が沸き、アビニョン生まれということで、おおっ..そういや行ったことあるある、ってことで記憶の糸をたぐっているところです。 |
「トゥーランガリラ交響曲」のLPを所持しているくらいだからメシアンとの出会いはけっこう古いはず。(でも他にあんまりよく知らない)。 輸入盤のスコアを欲しい欲しいとずっと思っていましたが買ったら3万円以上するので断念していました。なら何でもいいから安いのない??、ってことでたまたまゲットしたのがこの曲のスコア。ところがこれが当たり。メシアンの代表作のひとつというではないか。しかもメシアン節満載。 ところで、人類の中には「共感覚」という特別な知覚現象を持つ人がいるらしい。ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる特殊な知覚現象のことらしい。例えば、形に味を感じたり、文字に色を感じたりとか。で、メシアンは音に色を感じる人だったそうです。色聴。しかも音階の一音一音が異なる色に対応して、それらが複雑に組み合わさるとステンドグラスのようなモザイク感覚を感じるという......。戸外でたくさんの鳥たちのさえずりを聞くとき、視界一面がステンドグラスに見える人だったそうです。しかも刻々と変わるステンドグラスの万華鏡状態。 メシアンの個性は色聴にとどまらず、「移調の限られた旋法」「付点リズム」「不可逆リズム」「ギリシャ・インドのリズム」「独特な時間の感覚」「鳥の鳴き声」その他いくつも。詳細はただいま勉強中。 うーむ前置きが長いな。 まずこの曲は邦訳がよくない。世界の破滅みたいな恐怖っぽい内容をイメージしますがまるで反対。ヨハネ黙示録による、天使が降りたって告げる“時の終わり”のことで、“天国への上昇”を意味するという。ふーむそうか.....。つまり人間が天に召される時の祈りの曲なわけだ......。実際、8曲全てに「イエスの不滅性への賛歌」とか「永遠性への賛歌」という表題がついていて最後の第8局なんかは「天国にて」みたいな副題もついている。うーむ....、静かに静かに、集中して聴き込めば、そこは確かに人間の痕跡が感じられない「天国」であるような感じはするする。なるほどキリスト教みたいな一神教の人たちにはこの感覚がぐっとくるのでしょうが、でも我々八百万の神々と幾多の仏様を信仰する多神教人種にはなかなかわかりづらいところも正直あります。 メシアンの代表曲かつ有名曲とあってyoutubeで音源はけっこう聴き放題、映像も見放題なのがうれしい。さらに戦時中、フランス軍に召集されていたメシアンがドイツ軍(ナチス)に捕らわれの身となってポーランドの収容所の中で作曲したといういきさつも、この曲にカリスマ性を持たせるひとつの理由にあげられるようです。うーむこれはしっかり聴き込むしかない。youtubeで4人のアメリカ人演奏家による映像(いつのものだか不明だが、)をゲット。けっこう評価の高い演奏みたいです。 |
第1曲「水晶の典礼」。クラリネットが奏でるナイチンゲールという鳥の鳴き声。日本ではウグイス、西洋ではこの鳥というほど鳴き声が美しい鳥だそうです。ふーん......。、 |
![]() |
第3曲「鳥たちの深淵」。冒頭の7つの音(左)。同じ音が次に高さと長さを変えて現れ(中)、次には上下反転して現れる(右)。こういう作法がメシアンの特徴のひとつだそうです。うーむ、解説がないと絶対わからない。 |
![]() |
⇒ | ![]() |
⇒ | ![]() |
顔を真っ赤にして青筋を立てて超ロングトーンを吹くリチャードさん。ソロでクラリネットを吹かせれば世界一だそうです。 | ![]() |
第6曲「7つのトランペットのための狂乱の踊り」。拍子とか拍数とかいう概念を超越してます。3つの楽器が良く合わさるなあ。 |
![]() |
第7曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」。弱音のピアノの和声がとても美しい。けっこう引き込まれます。そもそもこの曲はヨハネ黙示録によるものとなっていて、いきなりそんなこと言われても何かを頭に思い浮かべる聖書知識が全くない自分でも、なんとなくそれらしい雰囲気を味わうことはできます。 |
![]() |
チェロ。うっとりした表情のヨーヨー・マさん。完璧に音楽に没入している。この人は没入すると上を向くことを発見しました。 | ![]() |
これがメシアン節のひとつ。複雑和音の下降音型。メシアンさんここでどんな色を見ていたのだろうか。 |
![]() |
ピアノのピーターさん。この曲を演奏するためにこの人が3人のメンバーを探したそうです。 | ![]() |
第7曲。ピアノを中心に音の饗宴。上からバイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ。全曲中の一番の万華鏡。聞いてステンドグラスの万華鏡状態を見る人は目がくらむだろうなきっと。自分には白と黒の万華鏡にしか見えない。 |
![]() |
第8曲「イエスの不滅性への賛歌」。超ゆっくりのピアノの和音に乗ってじっくりと消え入るような弱音のバイオリンが賛歌を歌う。美しすぎます。「これで救済された??」。ここのところが理解できないのはキリスト教徒ではないから仕方がない......。 |
![]() |
バイオリンのパメラさん。この人は没入すればするほどうつむき加減になります。最後の最後のこの場面では、美音というよりもかすれるだけのような小さい小さい音。 | ![]() |
ネットでおもしろいものを発見しました。「色聴者判定テスト」。これは楽しいです。おヒマな方はぜひお試しください。自分は色聴能力ほぼ無し。ただのフツーの人という判定でした。 |
このページのTOPヘ. |
|
2019.1.4 |
No12. ヒンデミット : 吹奏楽のための交響曲変ロ調 |
ドイツ人のヒンデミット先生、大変な言われようである。曰く、20世紀前半の巨匠のひとりでありながらおそらく最も人気がなく女性から無視される作曲家のひとりであるとか、一応は巨匠なのにやれ難解だの味気ないだの渋すぎるだのとか、一般には全くマイナーな作曲家であるとか、血も涙もないクールな音楽とか、尖った響きがガツンとくるとか、ウェットな情緒はいささかもなく実にクールでドライだとか、ドイツの戦車軍団がロシアの大平原を邁進していくような響きとかいろいろ........。でも100年近くも昔のことなのに歴史に埋もれないでこうした評価が残っていること自体が巨匠の証なんでしょう。 |
![]() |
で、この曲は自分がはじめてヒンデミットと出会った記念すべき作品です。はじめはよくわからなかったけれどスコアをゲットして深堀りしていくうちに大変に手の込んだフーガであることがわかって、以来、オタクすぎるとかマイナーすぎるとかいう誹謗中傷もなんのその、好きな作曲家のひとりです。楽しみ方は2つ。その1。これでもかというくらいの精緻なフーガ技法。スコアをよくよく見ればひとつの主題旋律が楽器を変えて3重4重5重にも重なって出てきます。パズルを分析するような面白さ。もひとつ。吹奏楽ならではの重厚な音圧。録音もいろいろありますが、低音がよく響いて各音色の粒立ちがいい録音ならけっこうイケます。スケールが大きいです。ヘビイです。男くさいです。カッコイイです。これがゲルマン魂?。 ![]() ![]() ![]() 第1楽章冒頭。ジャンジャカジャンという金管の強奏に乗って飛び出すトランペットの息の長い主題。この見栄のはり方がなかなかカッコイイです。この間木管は8分音符と3連符でピコピコピーヒャラやってます。上下を合わせるのが大変なはず。 ![]() 第2楽章。アルトサックスとトランペットの弱音でのデュエット。うまい演奏にかかるとゾクゾクっする部分。急降下する3番目の音が出しづらくて苦労するはず。 ![]() 2つの主題がここで合体。バリトンサックスが第1テーマを、アルトサックスとテナーサックスが第2テーマを吹いています。このあとそれぞれがフーガになりスコア1ページの上から下まで20数段は豪華絢爛。 ![]() 第3楽章第1主題。直後から1小節ごとに楽器が変わって次から次へとこの主題が出てきます。 ![]() 第2主題。これも次から次へと。 ![]() ちょっと落ち着いたところでダブルフーガ。精緻精巧としか言いようがない。音量音圧が膨らんだところで第1楽章第1主題まで現れてとうとう3重フーガに。 ![]() クライマックスで突如として3/4拍子が出現。イカレる人はここでイカれます。 ヘタなバンドがこの曲に無謀にも挑戦することをシンデミッカといいます。我々がそうでした。シンデミッカといえば我々の代共通の隠語となっています。ああ懐かし。 |
このページのTOPヘ |
|
2018.12.22. |
No11. ストラヴィンスキー : バレエ組曲「ミューズを率いるアポロ」 |
アポロである。ギリシャ神話である。ミューズとは女神の総称である(と初めて知りました)。ピカソが年齢と共に画風を激しく変えていったように、ストラヴィンスキーも作風を激しく変えていった人である。「ペトルーシュカ」等の三大バレエのあと、新古典派と言われるこれまたすごいバレエ音楽を書いた人である。ガラリと変わる作風は聴いたらすぐわかる。 楽しみ方は2通り。ひとつ。バレエ組曲をスコアを追いながら聴き込むこと。弦楽器のみの艶やかで甘く流れるような美しい旋律線。微妙な不協和音。弱音時には人の吐息を感じてゾクッとするような。ふたつ。YouTubeでバレエを鑑賞。並行してネットで楽曲解説や楽曲分析とかいろんな評論なんか読めば理解もより深まる。もっと慣れてくると目でスコアとバレエの両方を追うこともできるようになって知的好奇心を刺激されてこれはなかなか楽しい(何の役にも立たないけど)。 |
![]() |
ルネッサンス期の巨匠・ミケランジェロによるアポロの彫像。アポロは美や芸術の神としてだけでなく、予言の神とか病を治す神とか羊飼いの守護神とかいろいろあるらしい。古代ギリシャでは太陽と同一視されたり理想の肉体美を持つ青年像だったりいろいろ忙しい。この世界、日本でいえばまるで古事記の世界である。今年の6月に上野の国立西洋美術館にやってきたというこの彫像は、美術解説によれば、ルネッサンス期に追及された理想の肉体美を表現したものらしい。ふーむ..........そうですか。 |
1975年生まれのイタリア人バレエダンサー、ロベルト・ボッレさん。現代のバレエ界の第一人者といわれている人だそうです。第一人者でロベルトさんといえばブラジルのロベルト・カルロスしか知らなかったから今回二人目。YouTube動画からパクってきました。なるほどここでも理想の肉体美を表現してるってのもわかる感じがするする......。 |
![]() |
![]() |
![]() |
強奏のヘ長調の和音に乗って「私は神である」のポーズ。この瞬間の動画をスロー再生するとめちゃめちゃかっこいい。しなやかかつ力強い。ゾクゾクっ!!。ちなみに、ひとつのバレエ音楽でも衣装や振付けは時代と共に進化するものだそうです。1928年が初演で、その時の衣装担当がココ・シャネルだったそうです。その後、音楽の一部を切り取り、衣装も白の単色のみとなり、舞台装置も簡素化されて、舞台芸術としていよいよ純化してきたのだそうです。ふーん......。でもなるほど1928年の初演時の白黒写真をネットで見ましたがうーむ確かにケバい。余計な要素が入っているというか。現代ではなかなか受け入れならないだろうという感じ.....。ふーむ進化ですか。なるほど。 |
![]() |
![]() |
ロベルト・ボッレさんによるアポロの右手左手のグーパーグーパーのポーズ。映像だけ見ればなんでここにグーパーが、スコアだけ見れば息の長い旋律が多い中で珍しくここに8分音符がとなるのですが、映像とスコアの両方を同時に見ると振付師の感性というかすごさが垣間見れます。うーむすごい奥深い世界だ。 |
![]() |
![]() |
3人のミューズのうちのひとりテレプシコール。人差し指と人差し指が触れる瞬間にゾクゾクっ!!。超簡素にして超官能的。このあと2人の踊りが始まります。 |
![]() |
![]() |
![]() |
アポロと3人(3柱?)のミューズたちによる踊りのシーン。弱奏の弦楽器の乗って陶酔の世界が広がる。一瞬たりとも目が離せない。瞬きするのも惜しいくらい。アポロさん幸せそうだしみんなエロい。よくよく見れば衣装を通してミューズたちの乳首が透けて見える見える。アポロさん3人のミューズに囲まれていいないいな。 |
このページのTOPヘ |
|
2018.2.27. |
No10. ベートーベン : 弦楽四重奏曲 「大フーガ」 |
大げさに言えば、聴き手が選ばれている。演奏家もまた選ばれている 聴いて誰もが理解し得るあるいは楽しめる曲ではないのである。またどんな演奏家(楽団)でも演奏できるものではないのである。断言!。 聴き手としてその人選に漏れた自分は、ベートーベンの畢竟のこの傑作に、いやそれどころか人類史上でも恐らく類まれなる「内部へ深く(しかし激しく)沈着していく」4声部のこの音の絵巻物に出会ってから10数年、自分なりに少しでも理解したい、あるいはベートーベンの魂の叫びに少しでも触れたいと願う気持ちでずっときました。 その性格は恐ろしく内省的。文章表現能力が無いのでいろんな解説や評論から形容詞的なコトバをパクってしまおう。極限に達した「重み」。複雑な内声部。「人間であることの悲しみ」の表出そのもの。論理的・数学的・幾何学的・哲学的である。ベートーベンの前衛性、人間性、芸術性の全てを体現した音楽。「闘い」の精神をフーガの中に閉じ込めた。あまりに厳しい音楽であるために聴き手を拒絶するような孤高さがありその緊張感には圧倒されずにはいられない。日に何度も聴くような類の音楽ではない.............等々。 若いころから難聴に悩まされていたベートーベンはこの頃にはもう全く耳が聞こえなかったはずだ。多くの作曲家がそうするように、ピアノを鳴らして和音や不協和音を確かめるとかリズム感やいろんなバランスを確かめるとかそんなことができなかったはずだ。ではベートーベンの音楽作りの思考回路がどうなっているのか、得意の妄想を働かせてみた。それはきっと4次元の空間である。 ![]() 4/4拍子。8分音符、3連符、付点音符の乱れ咲き。複雑な内声部。 ![]() よくよく見るとチェロにフォルティッシモ記号。ここを強調したいという意思が働いているわけだ。 ![]() 6/8拍子。トリルの嵐。 4本の弦楽器の縦線と横線を組み合わせてひとつの音楽を作り上げる。極めて論理的・数学的な思考回路というしかない。アインシュタイン状態、。これはもうひれ伏すしかない。 ![]() 2/4拍子。どちらかというと無機的な感じで曲が進んでいきますが途中に突如として第1バイオリンの泣き節が現れる。天上にエコーするバイオリンの高音。この1-2小説だけは論理的数学的ではなくて極めて感情的。泣けます。耳が聞こえないベートーベン、ここで何を思っていたのか。 作曲されたのが1826年というからもう200年前だ。日本でいえば江戸末期の文政の時代。外国船打ち払い令の翌年とのこと。中国ではまだ清の時代。新潮文庫で「100年たっても読み継がれる」っていうコピーがありましたが、これが小説だったら100年前なら例えば夏目漱石とか島崎藤村。70年くらいまえなら例えば太宰治。のめり込んで読めば読むほど、作家の息遣いが直に聞こえる体験をすることができる。太宰治なんかは自分の耳元でダバコ臭い息を吐きながら自分に話しかけてくれている体験をすることができる。声が聞こえるので背筋がゾクっとする。このことを、「時空を超えて地下水脈で自分とつながっている」と勝手に思っているのですが、同じように、ベートーベンと地下水脈でつながっている、と思える体験をしたいと願うものであります。しかし今だ果たせず。もっともっと人生経験を積めということだろう。 |
このページのTOPヘ |
|
2018.2.19 |
No9. イーゴル・ストラヴィンスキー : バレエ組曲 「ペトルーシュカ」 |
ストラヴィンスキーの三大バレエのひとつ。オガクズでできた人形のペトルーシュカは、魔法使いに命を吹き込まれて恋を知る。でも所詮おいらは人形さ.......。 妖怪人間ベムではないが結局人間にはなれない。そのためペトルーシュカの体は踊りの中に時おりひきつったようにぎこちなく動き、人形の体の中に閉じ込められた苦しみの感情を伝えている............。フムフム、なるほどなるほど.....。はじめて聞いたのはずいぶん若いころ。ズービン・メータ指揮、ニューヨークフィルの演奏だった。目が眩むばかりの色彩感、変拍子を含む強烈なリズム感に幻惑されたことをよく覚えている。 バレエの映像がyoutubeにいくつかあるので、聴くこととはまた違った楽しみ方ができるのはうれしい限り。ネットで調べてバレエの筋書きや場面構成なんかをある程度把握しておくと楽しみが倍増。例えば、前半に出てくるフルートのソロは、魔法使いのジジイが3体の人形に命を吹き込むオマジナイであることなんかがわかってとても面白い。 |
![]() |
![]() |
![]() |
youtubeで3種の映像。命を吹き込まれて踊り出す、左から、荒くれ者のムーア人、いかしたバレリーナ、悲しいペトルーシュカ。バレエ第1幕、ロシアンダンス。色彩豊かなバレエの世界に一気に引き込まれます。 |
![]() |
![]() |
![]() |
(左) 第2幕。バレリーナに密かに想いを寄せるペトルーシュカ。 (中) そこに突然バレリーナがやってきてペトルーシュカはうれしさのあまり大はしゃぎ。ところがペトルーシュカは見事にフラれてしまうのであった。 (右) 第3幕。ムーア人の部屋にトランペットを吹きながらバレリーナがやってきた。バレエではもちろんバレリーナは音を吹かなくてオーケストラの奏者がトランペットを吹いているのですが、このバレリーナはトランペットソロが終わる2小節前で間違えてさっさと吹き終えてしまっていた。演出的にはミステイクのはず。人形なのになんと人間くさいことよ。 |
![]() |
![]() |
![]() |
(左)(中) ムーア人の部屋でいちゃつくバレリーナとムーア人。 (右) 恋心を秘めた哀れなペトルーシュカは扉の向こうでそんな二人をじっと見ていることしかできないのであった。それにしてもこの悲しい顔は何なんだ。メイクの感性がすごい。このあと部屋に乱入してムーア人に思いのあまり体当たり攻撃を仕掛けるのだが見事に返り討ちに遭うのであった。 |
![]() |
![]() |
![]() |
(左)(中) ムーア人のメイク。バレエではムーア人は人の心を理解しない残虐な人間の象徴とされているみたいですがこれははっきり言って偏見と人種差別であった。wikipediaでムーア人を調べてみると、モロッコやアルジェリア等北西アフリカのベルベル人といわれているイスラム教徒の民族だそうです。サッカーフランス代表のジダンがこの民族だそうです。ジダンに向かってこれお前の民族だよなと言ったら激怒するはずだ。まあ原作が100年前のものだから仕方がないと理解するしかない。 (右) ペトルーシュカのピアノ版の演奏中に固まるのだめ(野田恵)。このシーンはおもしろかった。 |
![]() |
![]() |
![]() |
第4幕クライマックス。踊り手がいっぱい出てきてもう大騒ぎ。観ている方ももう興奮。クラシックバレエ(白鳥の湖とか)はなんかおもろなくて見る気もしませんがこういうバレエならぜひ生で見てみたいものです。 |
|
このページのTOPヘ | |
|
|
2018.1.20. | |
No8. クロード・ドビッュシー : La Damoiselle Elle 「祝福された乙女」 | |
この曲のライバルはちあきなおみの「冬隣」である。いきなり何のことかわからんけど、イギリスと日本、あるいは西洋と東洋、あるいはキリスト教圏と仏教圏の文化比較考察を行う場合、その比較の相手となるのが「冬隣」という意味である。 |
|
![]() ![]() |
|
(左) 19世紀末のイギリスの画家にして詩人である、D.G..ロセッティによる「選ばれた乙女」。「選ばれた」といわれても何のことかわからんけど、意味的には「神に祝福された」ということらしい。若くして亡くなって天国へ行ってしまったうら若き乙女が天国の入り口でまだ地上にいる恋人に向かって「早くこっちに来て」、つまり「早く死んで」と言ってずっとずっと待っている図。 (右) ちあきなおみと言えば「喝采」や「夜間飛行」もいいけれど「あなた」とかこの「冬隣」を忘れるわけにはいかない。この「冬隣」、あの世に行ってしまった愛する夫に向かって、生前に夫が好きだった焼酎を飲みながら、「あなた早く私を迎えにきて」、つまり「私早く死にたい」と切々に歌うもの。(しびれますこのちあきなおみは。) で、安易な文化比較考査①。西洋はある意味能動的。日本はある意味受動的か。つまり「あなた早く死んで」と「わたし早く死にたい」の違い。 安易な文化比較考査②。視点。西洋では、あの世からこの世を見るという視点があるんだ。日本にはそういうあちら視点からの絵画とかあったかなというソボクなギモン。 安易な文化比較考察③。オトコオンナの題材を、西洋では恋人を描く。日本は夫婦を描く。考えてみれば西洋絵画で夫婦を描いたものってそんなにないような気がする。日本では例えば演歌は絶対夫婦だ。 安易な文化比較考察④。年齢。西洋では10代かせいぜい20代が絵となり歌となる。日本では、この手の題材は30代か40代だ。ちなみにこの時のちあきなおみは40才。 ちょっと安易すぎるのでもうやめる。 さてこの音楽、ドビュッシー20代後半の作。女性合唱とアルト(語り手)とソプラノ(選ばれた乙女)とオーケストラによるカンタータ。天上の輝きを放ちつつはかなさも漂う。20代でこんな音の絵を紡ぎだしてしまうんだからやはりこの人はタダ者ではない。 |
|
![]() ![]() 序奏(?)のあとに出てくるフルートの息の長い旋律が美しい。このフルートは、太く、倍音がいっぱいで、ぬくぬくと気だるい雰囲気が出せないといけない。奏者を選ぶ旋律だ。 ![]() 典型的なドビュッシー節のひとつ。同じものが数年後の「牧神の午後への前奏曲」にも出てくるゾ。 ![]() ![]() ソプラノ登場。邦訳(関西弁)すると、「カレシもうこっち来とってくれてもいいのに。だってあの人こっち来たがってんねん」。シェーンベルクの「グレの歌」でも強烈に思ったことなんですが、こういうかよわい(?)乙女的役柄のソプラノはどちらかというと線が細い(しかし芯は強い)方がイメージにぴったり来ます。いくつかの音源のソプラノを聴いているのですが、どれも「ええからあんた早よこっちきーや」って感じの線太絶叫系、屈強オバサン系でどうもイメージが合いません。ここはパワーで押す島津亜矢系ではなくて今井美樹とか松田聖子がイメージなんだけどな。まあ、そういう人がプロのソプラニストになるわけだからそれは仕方がないか。 ![]() ネットで検索して邦訳を2種ゲットしています。ひとつは直訳標準系、ひとつは関西弁。この部分は直訳では「そうしたら私たちの主キリスト様にお願いしましょう。大いなるお情けを、あの人と私に」となる。こんな無味乾燥な訳が延々と続いていたらとても読めたもんではない。直訳しすぎ。外国の有名な小説を読むこともあるのですがどうもしっくりこなくてギブアップする理由のひとつに訳の悪さが影響しているというのが自分の印象です。この関西弁訳では、「ほしたらウチはキリスト様に願かけるで。ごっつい情けおくれよって」。全体を見渡すとなるとこの端的さがものをいいます。内容がよくわかります。 ![]() ![]() ソプラノ最後の部分。マリア様に見守られた天国での生活をさんざ夢見たあと、「・・・・・あの人が来てくれればそうなるのに・・・・・」とボソっと一言。いつまで経ってもあの人はちっともこっちに来てくれひん.......、とホロリと涙を流すelle(彼女、ここでは乙女)というオハナシでありました。 |
|
このページのTOPヘ | |
|
|
2018.1.15. | |
No7. セルゲイ・プロコフィエフ : ピアノソナタ第7番 |
|
20世紀のピアノ曲の中でその革新性、強靭性、残虐性、演奏難易度とかカタルシスの点で最高ランクに位置する曲だそうです。確かに聴いてみたら一切甘さのない、余計な感情などない、容赦のない破壊的な、音楽である。うーむ確かにプロのピアニストやアマチュアでも上位ランクを目指す人ならこの曲を弾きこなしてみたいというきmindはうなずける。でも自分みたいにただ単純に音楽を楽しみたいという一リスナーにとってはちょっと機械的に過ぎて、なんというかフィジカルでなくてもっとメンタルなところで責めてきてほしいというのがホンネ。だからどうもダメだ。 特に第3楽章がすごい。タタタタタタタ、2-3-2の7/8拍子。速度も早いのでタタタタタタタを3分半も口ずさむこともできないぞ。ピアニストのリズム感とテクニックが試される。本当に両腕の筋肉がよくついていくなと思う。 |
|
![]() |
|
楽しみ方はちょっと違うところにあり。その①。クライマックスの部分でピアニストの筋肉が空中分解して音楽が崩壊していく様(というか度合い)を聴き取ること。 |
|
![]() |
|
その②。フィニッシュでピアニストのそれぞれのガッツポーズを見ること。弾き終えたピアニストのガッツポーズを見れる曲なんてそうそうないぞ。 | |
![]() ![]() |
|
(左) Y.ブロンフマン。キレがある。体力がまだ有り余っている感じ。破壊力も高得点。右手を後ろに振ってガッツポーズ。 (右) Y.ワン。彼女の場合は指が勝手に弾いているという感じ。右手のこのポーズはユジャ・ワンいつものポーズ。 |
|
![]() ![]() |
|
(左) L.ラン。クライマックスでは空中分解寸前。爆弾積んだ重爆撃機の翼と胴体をつなぐボルトが半分とれかかってあと15秒したら危なかったという感じ。でも左手を振り上げるこのガッツポーズは最高にかっこいい。 (右) M.プレトニョフ。弾き終えて両手でガッツポーズ。このポーズどこかで見たことがあるなと思ったら、スラムダンクで湘北高校が山王工業に逆転勝利した時の安西監督のガッツポーズと同じだ(笑)。マウスポインタを上に。 |
|
このページのTOPヘ. |
|
2018.1.11. |
No6. セルゲイ・プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第3番ハ長調 |
およそ3年前のある日、NHKのBSでそれとは知らず録画しておいたのが辻井伸行くん&佐渡裕氏のウィーンでのこの曲の演奏会。後日録画を見て、な、な、なにこれ!と驚愕して以来、何枚かのCDと楽譜を購入してハマッています。 なるほど麻薬的な音楽である。(最も自分は麻薬は知らない。タバコとガンジャーはあるけど。) それまでは知らなかったけどプロコの代表作としてすごく有名で、CDも多いし、刺激的なだけにいろんな人がいろんなところでいろんなことを書いているのでそれを読むだけでおもしろい。曰く、聴く者の脳内に怪しげな麻薬物質を分泌させ、そしてその中毒性の強さは並みの音楽ではありえない。曰く、プロコの快(怪)作である。曰く、1度聴いてハマる人はハマるし、体が抵抗する人もいるかもしれない。しかしハマってしまって2度3度と聴けばもう話は早い、あとは廃人になるまでイケば良いのだ。曰く、とびきり美しい旋律を持っているばかりでなく、攻撃性や先進性も兼ね備えた傑作である。曰く、青い空に遠い目であらぬ彼方をさまよい、曇り空にイヒヒヒと狂気錯乱する音楽である。曰く、アタマやココロで聴く音楽ではない、音色とリズムに徹底的に耳を同期させ、その変化の速さと振れ幅に肉体を共振させる、言わばカラダで快感する音楽である。曰く、腰が浮き立つようなスピード感、等々........。ソロを弾くピアニストについても、癇性ともいえるかっとび方で恐ろしく直情的にギンギラにキメて見せる(M.アルゲリッチ)とか、鋭敏に響きの変化を捕まえてクールな興奮をもたらす(M.ベロフ)とか、ある種の音楽的感興は生まれても肉体が喜ばない(V.アシュケナージ)とか、壊れてるもんは壊れてるんです(A.トラーゼ)とか、情熱で身を焦がすという燃え方ではないが、青白い炎を上げているのがかえって不気味だ(M.プレトニョフ)とか、音楽評論家のセンセイたちも音楽を聴くのも原稿を書くのも楽しくて仕方がないといった趣き。 で、自分のイチ押しはYuja Wang(ユジャ・ワン)。音楽評論家の池尾拓氏によると、ピアニストにはいくつかの類型があってそのひとつに爆演ピアニストというのがあるらしい。ピアニストが主にライブ(池尾氏によれば、何十年経っても色褪せないライブの衝撃的な演奏を「横琴爆演伝説」と呼ぶらしい。)で大成功をおさめるためには次の5つの要件があるという。①天性のノリノリのリズム感。②絶大な効果を求めて計画的あるいは即興的に楽譜を変更する勇気。③とろけるような歌心。④日ごろから左腕の筋トレを欠かさないこと。⑤聴衆の度肝を抜く大技(決め技)を磨くこと。 その、あっと驚く大技で「なんじゃあこりゃあ!」と驚かせて見せてくれたのが2012年モスクワのユジャ・ワンの映像だった!!。 いい時代になったものでyoutubeでいろんな映像を見ることができます。音楽は聴くことだけでなく、ビジュアルでも思い切り楽しめることをyoutubeが教えてくれました。(さらに動画の一部を切り取って画像として保存する技も覚えました。) 調べてみるとユジャ・ワンのプロコ3には少なくとも4つの音源があります。1つめは2009年のルツェルンの音楽祭。(指揮は今は亡きC.アバード。) 最新は2016年のニューヨーク。ただし音質が今イチなのでピアニストとしての進化は聴きとることはできませんが、衣装やヘアスタイルの進化はばっちり見てとることができます。 プロコのビアノ協奏曲第3番。白眉はなんてったって第3楽章。若き日のプロコフィエフ絶好調。確かにこの快楽は一度体験したらもうやめられないぜ。 |
![]() |
第3楽章は全体で9分くらいですが初めから終わりまで熱い熱い。最後の3分はもうお祭り騒ぎじゃ。3倍速の阿波踊り状態。クライマックスは超高速の上下動の細かいパッセージ。2音同時に弾くだけでもすごい。2009年8月ルツェルン。 |
![]() |
この超高速上下動パッセージ、第3楽章の中に4小節、6小節、4小節、7小節の合計4回が出てきます。2012年のモスクワではその4回目に驚愕の大技が炸裂!。 |
![]() |
上下動をグリッサンドで演奏。グリッサンドというテクニック自体はプロなら割とフツーに見られるものですが、なんとここでユジャ・ワンの右手は上向き(高音向き)を譜面よりさらに1オクターブ高いところまで演奏しています(赤線)。譜面変更の反則ギリギリ、場外乱闘寸前の大技を忌み嫌う人もいるはず。でもライブだからこれでいいんです。超々高速(光速)レーザービーム、強くてクリアなエッジ、悲鳴に近い超高音。これにはぶっ飛びました。 | ![]() |
![]() |
![]() |
低音行きは左指の背で(左)、高音行きは右指の背で(右)。超絶グリッサンド!。この間0.2秒くらい。 |
![]() |
第3楽章大詰めの悶絶の箇所。ピアノは打楽器ということがよくわかります。鍵盤を両手で強くたたく力とペダルを強く踏む力が合体して椅子からユジャ・ワンの腰が浮く。体は上下に動き左右に振られ、髪をふり乱し、悶絶で表情が歪むユジャ・ワン。でも2009年なので全体を通して表情に初々しさが残る。 |
![]() |
|
![]() |
オーケストラが激しいリズムを刻む中、ピアノの宙を舞う3連符乱れ打ちは目で捉えることのできない北斗の拳状態。自ら精製した麻薬に自ら溺れ恍惚となるユジャ・ワン。何かがユジャ・ワンに憑依しているかのよう。2012年モスクワ。 | ![]() |
|
![]() |
拍手喝采、大円団のラスト6小節。ハ長調のチャカチャカチャカチャン!。しかしドミソの中にシとレがしっかり混じっている(第1第2バイオリン)。和声に厚みを持たせるためですね。やはりプロコさんただ者ではありません。ただ者でないのはユジャ・ワンも一緒。どうよこの衣装。2016年ニューヨーク。 | ![]() |
このページのTOPヘ |
|
2018.1.7. |
No5. クロード・ドビュッシー : 「聖セバスチャンの殉教」交響的断章 |
ヤナーチェクやマクベスのハードピースもいいげれど時にはまったりとした空気の中でぬくぬくとまどろみたいと思う時もあります。そんな時にドビュッシーは最適。ドビュッシーの楽曲大好きです。「牧神の午後」「海」「夜想曲」「映像」とか有名な曲は若いころからいろんな演奏で楽しんできましたが、ドビュッシーという人はすごい多作家。作曲リストを探求するとまだ知らない楽曲がいっぱいあるある。新しい佳曲を発掘する楽しみがドビュッシーにはあります。 ドビュッシーという人は目に映る風景や想像上の情景とか空気感、絵画や音楽から受けたインスピレーションを音の絵にすることにかけては音楽史上随一。魂の叫びを聞くようなとびぬけてすんごい曲はない(全くない!)かわりに駄作が少ない、つまりハズレが少ないところがうれしい。「聖セバスチャンの殉教」。先入観なしでまずはこの名に惹かれますが、何で自分がこんなマイナーな曲に惚れ込んでいるかというとそれは地道な発掘作業の結果というほかにありません。 「聖セバスチャン」。調べたところによると、セバスチャンという人はキリスト教の聖人のひとり。ネットでもっといろいろ調べてみると歴史上なんかとんでもない変遷を経て今に至っている聖人様らしい。ローマ時代は軍人の神様で髭づらのオジイサンだったのがルネサンス以降になると半裸の姿で矢を体に撃ち込まれ苦悶の表情をにじませた美青年という感じに絵画として描かれる姿が変遷していったみたい。ネットで「聖セバスチャン」の画像を検索するとまあ出てくる出てくる。なるほど画家にとってはよほど創作意欲をそそられる題材だったんだね。そしてそこに三島由紀夫が出てきたのには驚いた。篠山紀信に撮ってもらった写真は全くおんなじではないか!!。そんなに聖セバスチャンになりたいか!!。オエッ!!。しかしこんなところにドビュッシーと三島由紀夫の接点があったと知ってこれはもっといろいろ知らねばならないということでネット上をウロウロしましたがよく歴史や内容を理解してここで感想をまとめられるほど脳味噌思考回路が立派にできていないしエラソーに知ったかぶりを書くとかえって自爆する恐れがあるので今日はここでやめとく。 「聖セバスチャンの殉教」交響的断章。4つの曲から成り立っています。フランス語が読めればなぁ.......、とこういう時に思います。音符は読めてもフランス語で書かれたサブタイトルやドビュッシーの指示文字の意味が分からないからね。フランス語を自在に操ることができたらドビュッシーとの距離がもっとぐっと近づくのでしょうがまぁバカだから仕方がない。だから純粋に耳から聴こえてくる音楽のみを楽しむこととしよう。 ![]() 第1曲。「ユリの庭」。ドビュッシーの得意技のひとつ、複数のハープによるアルペジォ。ある時は優しく、ある時は神秘的。 ![]() 第2曲。「法悦の踊り」。強奏のトランペットもいいですがふくよかな音色の弱音もまたいいです。 ![]() 第2曲ラスト。8/4という拍子がステキ。上は2台のチェレスタ、下は3台のハープ。幻想的な響き。 ![]() 第4曲。「よき羊飼い」。最後の部分。殉教して天に召された瞬間というイメージ。静謐。この感じを音に描ける人って後にも先にもドビュッシーだけだろうね。やはりこの人天才。女にはだらしないけど。 |
このページのTOPヘ |
|
2018.1.6. |
No4. フランシス・マクベス : カデッシュ |
マクベスといえば一貫して暗い・重い・モノトーン(もっと悪くいえば、執拗・陰鬱・邪悪・くどい・しつこい・ワンパターン........)という誹謗中傷もなんのその、「カデッシュ」、これだけは100年経っても忘れ去られることはないだろうと思われる1970年台の吹奏楽曲の名曲中の名曲(と勝手に思い込んでる)。よくよく聴きこむと低音楽器から上に音を積み上げていくという独自ピラミッド理論(当時はやってた!)を提唱したのもむべなるかなと納得。なるほどマクベスの楽曲は全体的に精神的緊張感が高い曲が多く、聴いているだけで胃がキリキリと痛むような、どこまでも精神的に追い詰めてくるような、そんな陰鬱な雰囲気がプンプン。 マクベスの楽曲の音源は多々あるけれど、でも演奏によっては劇的効果を狙いすぎるあまり制御不能の暴走状態に陥ってかえって自爆するケースもあり、安全運転に終始するあまり全く心に響かないケースもありで意外に多種多様。しかしある曲にはたいてい圧倒的に神がかり的な演奏がひとつは存在します。1980年吹奏楽全国大会の市立川口高校の「神の恵みを受けて」なんかがいい例。他の音源と聴き比べたらそのすごさがわかりすぎ。 で、「カデッシュ」。ユダヤ人の死者への祈りの歌、という意味らしい。 ![]() 冒頭部分。チャイムとドラ。超弱音で短2度の響き。この沈痛な雰囲気が全曲を包む。 ![]() 半音がぶつかりながら音が膨らんでゆき、最後の解決のみが長音階。 ![]() とにかく音が分厚い。重厚。 ![]() 後半から印象的なフレーズが出てきて、 ![]() 膨らむとこういうスコアになる。低音の重層的な響きの上に高音の悲鳴的なサウンドが炸裂。これがマクベスの真骨頂だ!。 ![]() 最後の3小節。沈痛な祈りの音が昇華され、突如として現れる透き通ったハ長調音階!。トランペットの栄光に満ちたhi-C音(最も高いド音)が衝撃的。およそ30年前に初めて聴いた時の衝撃を今でも覚えています。 全体にスローテンポだし細かい音符もそんなにないので吹きやすいだろうと思うけれど全然違うところに落とし穴が。息の長~いフレーズばかりだし、しかも最強音の連続。どこで息継ぎするんじゃあ....という感じ。演奏するのには相当の体力が必要なはず。まさに体育会系もしくは肉食系。同時に聴く方にも相当の忍耐力が求められる。でもやめられないんだなあこれが。敬愛する師匠の死を悼んでこの曲を作ったというアメリカのフランシス・マクベス博士、6年前のちょうど今日、78才で逝去されたということです。合掌.......。聴き倒すことが何よりの供養になると思っています。 |
このページのTOPヘ |
|
2018.1.4. |
No3. ヤナーチェク : グラゴルミサ |
どうしてこんなにヤナーチェクに惹かれるんだろうとず~っと考えていました。それを上手いこと文章に落とし込みたいとず~っと思っているのですがそこは脳味噌内の思考回路が半分崩壊しているアル中予備軍のバカぶどう園主、文章能力のない自分には所詮は無理なことと承知しつつも、結局は以下の3点に集約されると思います。 ① まずはこの人の人生そのもの。若いころから作曲家としてそこそこの実績があったとはいえまあそのままいけば後世には忘れ去られる存在だったはず。しかし齢60を過ぎて38才も年下の女性カミラと出会ったことで彼女から受けたインスピレーションで創作された楽曲がすごい。だから人はカミラに感謝せねばいけない。「タラス・ブーリバ」「シンフォニエッタ」に2つの「弦楽四重奏曲」そして極めつけが「グラゴル・ミサ」。当時の60過ぎといえば現代でいえば70過ぎではないか?。そんなじじいが恋愛情熱的にすさまじいパッションと芸術創作的に類まれなるアイデアとテクニックを持っていたことに感服。自分も齢60が近づきつつありますが、そんな自分が老齢になってもかくありたいという隠れた願望を実際に実践していたのがこのおじいさんです。 ② やたら♭(フラット)が好きな作曲家。それも変ニ長調(♭5つ)とか変イ長調(♭4つ)とか極めつけは変ハ長調(♭7つ)。変イ短調(平行調が変ハ長調)ってのもあるぞ。変ハ長調なんてのは♯5つのロ長調と実質同じなんだけれどあえて♭7つの変 長調でスコアを書くなどというこの微妙に偏った調性感覚に何ともいえずしびれる。それに変調こそわが作曲テクニックと言わんばかりに数小節ごとに頻繁に調が変わる。それから拍子。このグラゴルミサの第1楽章は基本3拍子なんだけれども原典版によるとこの1小節の中に3拍子と5拍子と7拍子が同時に混在していたという。指揮者が棒を1回ふる(1小節)度に金管は3拍子、木管は5拍子、ハープと弦楽器は7拍子だったというからヤナーチェクの作曲技法行きつくところまできたという感じ。シンフォニエッタ2楽章なんかもそこまで行かずとも2/4→4/6→8/13→3/4→4/4と目がまわる。8/13っていったいなんだぁ!!。 ③ 生まれ育ったところがチェコ東部の旧モラビアという、日本でいえば東北の津軽地方みたいなイメージ。ノスタルジックというのではない。土俗的というのでもない。しかしなんというこのアクの強さ。そしてこの空気感。 ![]() 第3楽章 「Slava」(グローリア) まず拍子が4/9というのがそそられる。よくよく見ると3連符と8分音符が混在。聴いているとこの異次元感覚にトリップ。 ![]() ![]() 第4楽章 「Veruju」(クレド) Verujuを邦訳すると「(唯一の神を)信じます」。何回もこのフレーズが出てきますが合唱の強弱記号がその度ごとに微妙に異なっていることを発見。ヤナーチェクのある種のタクラミみたいなものを垣間見ることができます。 ![]() 第4楽章。全曲を通して最も謎の部分。変ハ長調からロ長調へ転調??。同じだろうがぁ!?。聴いてみてもこの箇所で雰囲気は全く変わらない。おそらく金管かなんかの移調楽器にとってロ長調の方が楽譜的に読み易いのではないかと推察はできるものの実際のところヤナーチェクの意図が全く読めない。プロの人に聞いてみたいところです。 ![]() 第4楽章最後の大合唱。初めて聴いたときに「ハーリ・ハーリ・ハーリ.....」と聞こえて何のことかわからなかったのですが、楽譜と邦訳を探求して納得。「Amen」はスラブ語では「Amin」と発音するのであった。転調転調を繰り返して最後変ホ長調のど迫力で締めくくり。魂が揺さぶられます。2回目の「Amin」のところでもしっかりと不協和音が響いていることにも注目。 ![]() ![]() 第6楽章 「Agnece Bozij」(アニュス・デイ) Pomiluinasを邦訳すると「神の子羊」。合唱で同じフレーズが4回出てきますが、全て半音ずつずれています。これだけで1つの楽章をもたせるわけだ。微妙に調を変えて同じフレーズを繰り返すのがヤナーチェクの作曲技法だ。3分くらいの短い楽章だけれども練りに練ってあることがよくわかります。 複数の音源でこのところハマっていますが、とにかく不思議な魅力を放ちます。しばらくこの麻薬的トリップ状態から抜け出せそうにありません。 |
このページのTOPヘ |
|
2017.4.23 |
No2. ベートーベン : 弦楽四重奏曲第15番 イ短調 |
乱暴に持論を展開すると、ベートーベンはあしたのジョーである。反対に、あしたのジョーはベートーベンである、でもいい。でもこれではちょっと乱暴すぎるのでもう少し正確に言うと、ベートーベンが「第九」「ミサ・ソレムニス」で己の内なる全てのものを出し切った時の精神状態は、矢吹丈がホセ・メンドーサ(だったっけ?)との世界タイトルマッチを15R闘い抜いて燃え尽きて真っ白な灰状態になったのと同じではないかという。矢吹丈は苦悩の男であった。真っ白に灰になった時、その苦悩の向こう側に何かが見えたはずだ。ベートーベンも同様。燃え尽きて灰になって何にもなくなった時、今までと違う何物かがチラリと見えたはずだ。それを表現したのがこの孤高の室内楽であるというのが自分の解釈。難聴だったから尚更、神経が研ぎ澄まされて、余計な音符などひとつも存在せず、シンプルな中になんと深遠な世界のあることか。だからその分、演奏者にとってはとんでもない難物であること間違いなし。ベートーベンが苦悩の向こう側に見たものというか、艱難辛苦の果てに行き着いた境地というか、演奏の中にそういうものが表現できていないといけないと思う。だから世にこの楽曲の音源(演奏)はあまたあるけれど、ほとんどの演奏はクルクルパーであると断言してしまおう。ではなぜクルクルパーばかりなのか?。 少し極端かもしれないけど、たとえば親しい人の死とか、生死をさまよう大病を経験したとか、愛する人との確執とか裏切りとか、神経がそれこそひっくり返るような幾多の人生経験を積んだ人でなければ演奏できない楽曲なのかもしれない。この楽曲は演奏家を選ぶ。少なくとも演奏家に一定の年齢が必要と思う。しかし同時に聴き手も選ばれていることを忘れてはならない。自分も若かりし日、この辺の楽曲をウロウロしてみたことがありましたがさっぱり理解できませんでした。ねむくなるばっかりで....。しかし今は違うぞ。ベートーベンが死んだ年齢になった今はじめてわかることもある。自分もそんな年齢になったことに素直に喜びを感じる。 演奏は、1961年録音のブダペスト弦楽四重奏団に尽きる。ベートーベンの内面に宿る真の魂をあぶりだすように示してくれる。そこには他では絶対に感じることのできない圧倒的な凄みがある。圧倒的な凄みとは、ベートーベンの魂の凄みであると同時に楽団4人の魂の凄みでもあるのだろう。ここで楽団4人の人生をも探求してみたくなる欲求にかられる。ベートーベンの魂と楽団4人の魂が核融合して完成した、これこそは人類の至宝の記録と称して間違いないと思う。 第2楽章 ![]() イ長調の特性は、明るそうで実は暗いこと。活発そうで実は内省的なこと。そう思って聴かないとただ眠くなるだけ。よくよく聴きこむと恐ろしいほどの深淵が眼前に広がる。 第3楽章中間部 ![]() ベートーベンの持ち調性のニ長調。人跡未踏の“神”の領域に言葉はいらない。 第5楽章 ![]() イ短調からイ長調に転調する箇所。ここで解釈を間違えてはいけない。単に悲哀から歓喜へとか迷いから涅槃へとか此岸から彼岸へとかいう解釈ではただの安直なお涙頂戴路線の餌食となってしまう。ベートーベンはこの時すでに涅槃にして彼岸の人だったからここでは天国から天国の奥の院へ的解釈でないといけない。 |
このページのTOPヘ |
|
2017.4.11. |
No1 ヤナーチェク : 弦楽四重奏曲第2番「Intimate Letters(=ないしょの手紙)」 |
「ないしょの手紙」なんて表題(訳語)がまずいけない。いたいけな小学生がヒソかに想いを寄せる異性へのカワイイ無邪気なラブレターくらいの意味程度にしか聞こえない。ところがよく調べてみると違う違う......。若いころ結婚してその後離婚してはいないものの育った環境や身分の違いもあって破綻ギリギリ神経スリスリの家庭生活を送っているヤナーチェクおじさん。仕事的には成功してそれなりの社会的地位と経済力は得てはいるものの家庭的には恵まれていなかったらしい。で、還暦を過ぎてから38歳も年の離れた人妻に恋をしてしまった。死ぬまでに往復した愛の手紙が600通を超えたというからすごい。一音一音を君に捧げる、この熱い想いを君に届けたいと言って作った曲らしい。この版権を全て君に捧げると遺言して死んでいったというからすごい。(実際に死後にこの女性と妻の間にもめ事があったかまでは不明。) だから表題としては「人妻との不義密通を密かに企てる不埒な手紙」とかそんな名前をつけなくてはいけない。少なくともそういう意味を込めないといけない。責任者出て来い。時は20世紀初頭、場所はモラヴイア(=今のチェコ東部)。 ということを知ってしまった以上、ヤナーチェクおじさんのその熱い気持ちに共鳴するのはオトコとして当然のこと。歳も近いし。さっそくスコア片手にいくつかの音源を聴いてみました。第1楽章。「これほど猛烈な恋心を、60歳を超えた老人が抱いていたのか」という評論を読みましたがほんとにそのとおりだぁ。熱い。熱い。約6分間、ずっとクライマックス状態。テンポの変化も激しく落ち着くヒマがない。静かにしている余裕がない。恋焦がれてこのドキドキ感もうどうしようもないという感じ。でも演奏によってその不埒なドキドキ感の表出にやや差があることも事実。アルバン・ベルク四重奏団が一番しっくりきました。この楽団は音がキンキン金属的できつくてややヒステリックで感情露出型で(ベートーベンなんかでは特に)どうもいけ好かないという諸氏が多いらしいのですが、この曲の場合その傾向がむしろ合っているような気がします。第1バイオリン第2バイオリンの透き通った高音が青空高く舞い上がる。その音のヌケ具合がとても艶っぽい。チェコ東部の大草原地帯が舞台なのでここは絶対この音の感覚を大事にしたいところ。 ![]() 1小節目~。これがヤナーチェクと相手の女性カミラとの出会いのテーマということを押さえておくとあとあとより理解が深まります。このあとあちこちに出てくるし。 ![]() 198小節~。 フラットがついて調整が微妙に変わる聞かせどころの一つ。“徐々にテンポアップ”という指示とともに強弱記号が1VnとVa、Vcは“p”だけれど旋律線を弾く2Vnのみ“mf”しかも“表情豊かに”となっている。よくよく譜面を見るとヤナーチェクのこういうある種のタクラミを垣間見ることができて楽しい。 ![]() 243~249小節。Prestoと指示された5/4拍子のテンポは1小節あたり0.6秒。Va、Vcの5連符もすごいけれど1Vnがもっとすごい。いくらトリルとはいえ0.6秒間に6回もできるかい?。12音も??。プロの人に聞いてみたいところです。 ![]() 300小節目。p<ffのど迫力に体が震えます。ところで興味深いことは、作曲家によってそれぞれ一撃必殺の決め技的な調性というのがあるように思うのですが、ヤナーチェクの場合はそれが変ニ長調とはっきり読み取ることができます。。「シンフォニエッタ」の第1第5楽章もそうだし。 |
このページのTOPヘ |
|