斉藤金司 教育委員長の答弁

 お答えします。
 中学生の逮捕事案とその原因などについてです。
  教育委員会では、学校と緊密に連携をとりながら、このような事案に至らないよう努めてきたところですが、同じようないくつかの事案も続けて起きるなど、多くの皆様にご心配をおかけしおりますことを、心から申し訳なく存じております。
  これらの事案につきましては、学校には、本当に精一杯、心を砕いて努めていただいてきたと思っています。  先生方には、事態が好転しない状況の中にあって、日夜をおかず粘り強く努力を重ねてきていただいていただけに、ご指摘のような事態に立ち至ってしまったことは、とても残念に思っています。
  折しも、ご指摘のように文部科学省による08年度児童生徒の「問題行動調査」において、小中高校生の暴力行為が、6万件近くと過去最多を更新したことが公表され、マスコミ等によってこの問題が論じられています。
  曰く、「親の子育て機能の低下」「格差社会の影響」「食の変化」などが原因だ。
  曰く、その結果、子どもたちの、「感情をコントロールする力」「ルールの遵守意識や規範意識」「コミュニケーション能力」などが低下している。
  そして曰く、解決のためには「家庭のしつけ」「学校と保護者や地域との情報の共有」等が必要であり、問題が起きた場合には、「学校全体であたる」「関係機関とも連携する」等々です。
  これらの言説の多くは正しく的を射て、問題の複雑さも解決の困難さもきちんと捉えているように思います。 と同時にしかしどこか微妙に違うという違和感もまた、自分は感じ続けてきました。
  かつてある学校で、教員の一人が大怪我をするということがありました。その生徒の指導をめぐって、職員会議は深夜まで続きました。
  この時、教員たちの心を支配していたのは、底の知れない無力感でしたが、その無力感は、その出来事を通して思い知らされた二つのことによって、さらに重苦しいものになっていたように思います。
  一つは、理論や理屈は全く無力であるという徒労感です。 暴力の原因を理解しその対処の仕方を身に染みこませていたのに、そのような理解は、ひとつの個別の出来事の前にあっては、ほとんど意味をなさないものであったということ、むしろ、「理解する」ことによっては到達できない心のひだ、感情の暗闇のようなものに行きつくとができなければ、「理解」はかえって子どもを深く傷つけてしまう。そういう思いから来る徒労感です。
  二つは、暴力というものの持つメカニズムに対する恐れです。 おそらく暴力は、それ自身の中に「自己増殖していく」というメカニズムを内蔵しています。そのメカニズムは、言説などという理屈を一瞬にして吹き飛ばし、それを振るう者の意志さえも裏切って増殖していく。暴力とはそのような恐ろしい仕掛けであるという認識です。
  こうして、あの夜を思い出す時、流布している言説は、その正しさにも拘わらず、本当のところに届いてはいないような気がしてなりません。
  思えば、原因とされるものの反証はいくらでも挙げることができますし、ことが感情の領域により多く関わるものである以上、技術的なものや方法論的アプローチによってでは、ほんとうの解決に至ることは、おそらくできません。
  柳田邦男さんは、子どもの暴力について論じる中(08年12月11日 西日本新聞)で、「自分は孤独だ」「時には、自分が役に立たない人間だと思うことがある」と感じている子どもの比率が、他の国に比べ日本が飛び抜けて高いこと、そこに問題の根っこがあると述べ「これら二つのデータは、成育期において親からたっぷりと「愛された」という経験が、いかに多くの子どもたちの中に欠落しているかを示している。」 親が「しっかりと抱きしめるような深い愛で子どもを見つめているかどうかという問題としてとらえなければ、本質は見えてこない」と指摘していました。
  「愛されなかったということは、生きなかったということと同じだ」とはある小説家(ルー・サロメ)の言葉ですが、やはり、このこと以外にはない、という思いがします。
  言うに易しく、行うにはものすごく難しいことですが、このような認識を根底に据え、柳田さんの文章の「親」のところに、「教員」や「大人たち」という言葉もまた代入しながら、子どもたちが日々の生活の中でどのような感情を育んでいるのか、丁寧に検証することによって、この問題、暴力に限らずいじめや不登校の問題も、おそらく同根だと思いますがこの問題を解きほぐしていくこと以外にはないのではないか、そう考えております。  
  以上でございます。