1月29日(土) 

  保育料の引き下げ案 が発表される      


 2月2日に行なわれる、教育民生委員協議会資料として、協議事項として「保育料の見直し」に関する文書が郵送されてきた。
 すでに、議会でも、保育料の引き下げを答弁しており、「(軽減で)18市上位にステップアップしたい。」ことが表明されてきた。
  来年度予算編成作業が行なわれている中、今回の委員会での協議となったものだ。

  議会での資料は、事前に議員に遅くとも3日前には送付されることが、理事者との確認事項となっている。

 今度の引き下げ案は、階層によって最高で月額5000円の引き下げなど、全体で引き下げられ、前進していることは確認できますが、多子世帯軽減で、この間 第3子以後 30%軽減されていた制度が、2年の経過措置を設けて廃止される提案である。  
  また、無認可保育園の保育料の引き下げにつながる提案も行なわれている。

 委員協議会の資料は、ここをクリック (PDFファイルです)  

 菅谷市長の選挙時の公約は、以下の通り

 子育て支援  
●安心とゆとりを持って子どもを生み育てていくための方策を考えます。   
 →あかちゃんや、子どもたちの健康、生活習慣、育児についての不安を解消するため、相談部門を充実させます。
 →子育てに伴う経済負担の軽減策を考えます。   
 →子育て支援センター機能を充実させ、福祉ひろばなどにも、放課後児童対策のための基地機能を持たせます。
 →高齢者と乳幼児が触れ合える宅幼老所の整備を充実させます。  
 →子育てしやすい職場環境を作る支援をします。

 財政難の中、この公約に照らして、そして、何よりも、がんばって子育てしている世代への支援、そして少子化対策につながるかどうかを判断基準に、検討を加えたいと思います。  

 是非、皆さんのご意見をお寄せください。

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1月26日(水) その2 

  1.17 希望の灯り      


 朝、ホテルから神戸市役所に行くとき、歩道橋から、今朝登った市章山の「市章」を確認できるスポットがあった。

  神戸市での視察を終えた後、「一.一七 希望の灯り」と阪神・淡路大震災慰霊と復興のモニュメント」のある、「東遊園地」を訪れた。  
 携帯電話で、何枚か写真を撮ってきた。

  「一.一七 希望の灯り」の碑には、次の言葉が書かれていた。
 ドラマ「わかば」の中でも、紹介されていた言葉だ。

  一.一七 希望の灯り
  一九九五年一月十七日午前五時四十六分
  阪神淡路大震災

 震災が奪ったもの
  命 仕事 団欒 街並み 思い出

…たった1秒先が予知出来ない人間の限界…

 震災が残してくれたもの
 やさしさ 思いやり 絆 仲間

 この灯りは
 奪われた
 すべてのいのちと
 
生き残った
  わたしたちの思いを
  むすびつなぐ

 

  この希望の灯りに書かれているように、復興されているのか。
 
  昨日、三ノ宮駅から 「人と防災未来センター」 へ行く バスの中で、座っていた方と話ができた。
 人と防災未来センター周辺の復興住宅で、一人で暮らす高齢の女性。
  場所までは、聞かなかったが、現在でも自分の家は、傾いたまま別のところに残っているという。
  10年前の状態でそのままで誰も住んでいない。
  子供も孫たちもいるが、神戸市にはいない。
  新しい神戸赤十字病院が近くにあるので安心。だから高層の住宅に住んでいる。

  と屈託のない優しい笑顔で、初対面の私に話してくれた。

  しかし、その新しい復興公営住宅での孤独死が、仮設住宅廃止後(2000年)以降316人に達したことを昨年のテレビが報道していた。
  この数は、仮設住宅での孤独死86人を大幅に上回っている。

  三ノ宮駅で、昼食を済ませた後、新神戸に向かうタクシーの運転手が次のように語っていた。

  「自分も長田区に土地を持っていたが、区画整理でそれを売って、それを資金に別の離れたところに家を建て、夫婦の両親とも一緒に住んでいる。
  震災前までは、長田区で商売をしていたが、それもできずに今はタクシーの運転手をしている。
  長田区は、空き地がまだ目立つ。 長田区を見れば、復興していないことが良くわかる。 最後は、暗い話になってしまってすいませんでした。」

  われわれが、視察前に議員団会議で学習・確認していた通り、まさにそこに真相があるという話だった。

  今回の私たちの視察のテーマは、 阪神・淡路大震災10年目、改めて震災の実態と震災対策・危機管理の教訓そして復興の実際を確かめるためだった。
 そうした、視察目的に照らすならば、不十分な点は、時間の制約もありしかたがなかった面もあるが、改めてこの問題を考え直すきっかけにはなった。

 いずれ、視察結果に関しては、まとめた形で発表したいと思います。

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1月26日(水) 

  鈴なりの南京錠      


 朝5時50分にホテルを出て、市章山に向かった。
  NHKの「わかば」で、主人公の若葉が、神戸市の市章の植え込みの刈り込み作業をしながら、神戸市の「復興」を語る場面があり、神戸に行ったらこの山に登り、神戸の街をこの目で見ることを計画していた。

 ホテルの職員に地図を確認し、途中コンビニで道を再確認しながら、走った。
  市章山の上り口と思われる交差点に、交番があり、電気がついていたので入ったが、呼んでも誰も出ないので、仕方なし通行する人を待ってもう一度確認した。
 「この道でいいですよ。でも上りはかなりきついですよ。」といわれた。
  確かに上りはきつかった。

  ワールドカップの観戦で韓国の釜山に行ったときに、やはり朝早く、ホテルから山の上にある公園に行ったときのように、その道は、はじめは周辺に家々が夜明け前のうす暗い中でも確認できたが、途中からは、ちょうど浅間温泉から美鈴湖に登るときのような山道に変わった。
  途中、ループ状の歩道橋が見えてきたので、間違いなく近道と判断その橋を走ることにした。
  橋のたもとには、「ヴィーナスブリッジ」と書いてあり、上っていくと未明の神戸の夜景が見えた。
  そして、その橋を上りきると、ハートを幾重にもひっくり返したようなライトアップされたモニュメントが現れた。
  この時間でも明るいので、何かなとは思ったが、気にせずその先に向かった。

  実は、昨日、三ノ宮駅に近づくときに、神戸市の市章が見えるはずだと目を凝らしながら探していたのだが、とうとう見えなかったので、少しずつ白んできたので、それでもと思い見渡してみたが、残念ながら確認できなかった。
  トイレを済ませた後、行きずりの人に改めて進路の確認をした後、さらに上に向かった。
  途中 両手にレジ袋いっぱいの荷物を抱えながら下ってくるホームレスらしき男性とすれ違った。
  そしてやっと、市章山を矢印で案内する看板に出会った。
 上を見上げると、確かにフェンスに囲まれた植え込みの端をを確認できた。
 案内に沿って階段を上ったが、残念ながら、その市章を確認できないまま、市章山の頂上についてしまった。
 
どこかで一望できるスポットがあるはずだと思っていたのだが、正直残念だった。

  時間がないので、さっそく下ることにした。
  その前に、錨山(いかり山)のほうに向かった。 そこには、ダリウス式の風力発電装置が山頂に設置されていた。
  さらに歩を進めると、もうひとつ建造物が見えてきた。
  説明のパネルに「ダウンウインド型」風力発電機と太陽光発電とパネルには書かれていたが、太陽光発電装置が見えるだけで、「ダウンウインド型」風力発電機は10月の台風のため現在故障、修理中との案内版が添えてあった。

  そうこうしているうちに、もう一人道路でなくハイキング道を登ってくる人と出会った。
  この道を下れば、上ってきた道路に合流できることを確認できたので、階段を下ることにした。
  途中、どうやら錨の植え込みの端らしきところを通り過ぎたが、錨の確認できないばかりか、やはり市章はそこでも全貌を見ることはできなかった。
  そして、再びヴィーナスブリッジの所に戻ってきた。

  驚くことに南京錠の多いこと。
  上るときは、暗かったので確認できなかったが、ブリッジの手すりにかなりの数の南京錠が鈴なりに取り付けられていた。
  真鋳の鍵で、古いものが多かったが、ごく最近つけられたと思われるものも確認できた。
 そこには、カップルと思われる二人の名前と、「永遠に離れません」というような主旨のメッセージがマジックで書かれていた。
 また、塗装工事のため期限を区切って、取り外すことを求める張り紙も見つけた。
  くるときに見えたモニュメントは、点灯されていなかったので、今度もまったく気にせず通り過ぎてきた。
  ただ、そこで振り返り山を見上げたときに、やっと神戸市の市章が確認できるスポットがあった。
 一度戻って再確認したが、思ったより小さい。
 
これでは、方向としても電車からは確認しづらいこと、仮に方向が合っていても、探すには初めての私にはかなり難しかったことがわかった。

  ヴィーナスブリッジの途中にある展望台から、神戸市を遠望した。
  確かに建物だけ見れば、10年前にここに大地震があって、町が壊れたなどまったく考えられないような街並みが展開していた。

  ハイキング道から一般道路に戻ってきたころには、すでに一日の出勤が始まっている時間になっていた。
 急なくだり坂を、何台も車が先行する中、上ってくる車に気をつけながら一路ホテルに向かった。
  すでに時間は7時を回っていた。
  ホテルには、7時20分ごろ到着した。 出発のとき「かなり遠いですよ」と案内してくれたホテルマンにお礼を言って、部屋に戻った。
  知らない街のいくつかの発見があったジョギングだった。

 追伸: 松本に帰って、この南京錠のことを調べてみた。
     いくつかのサイトを確認できた。

 まず、ヴィーナスブリッジは、ここをクリック
そして
    「愛の(南京)錠」と言われていること。  ここをクリック 

   ルーツは良くわからないが、中国でも同じ現象があること。  ここをクリック
   ライトアップされていたモニュメントは、愛の鍵モニュメント  であること。

  などがわかった。

 (本命の神戸市の視察については、その2) でお伝えします。)

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1月25日(火) 

  「伊賀流」 自治基本条例 と 住民自治協議会      


 伊賀市は、上野市、伊賀町などが合併してできた市。
  昨日夕方は、到着後、夕食前に伊賀上野城周辺の探索をしてきた。

  旧上野市は、城下町であることが、町並みでわかる。
  明らかに枡形の門があったことを偲ばせるクランク状の大きな交差点が確認できた。
  上野城を見るために、急いで駆けつけたが、すでにお堀の周辺を回り込み、天守閣に登登るころには、もう暗くなっていた。
  天守閣の入り口を両手で強く押して、重い門を揺らすことで、この城も訪問したという証にし、急いでホテルに帰ってきた。

 視察先では、地図にお城マークがあったり、天守閣が見えると必ず、走ってその周辺を回ることにしている。
  すでにどれほどの城を訪問できたか確認してないが、これからもそうしたいと思う。

  現在の伊賀上野城は、雅名は白鳳。
  昭和10年、川崎克氏が私財を投じ、3年の歳月をかけて模擬復興した昭和建築の木造の最後の城。 伊賀文化産業城と呼ばれているとパンフレットに書かれていた。

 伊賀市(旧上野市)は、もうひとつ俳聖芭蕉翁の生誕の地。
  駅前には、芭蕉翁像があり、上野城内にも、芭蕉の句碑があった。

 そして、今朝は、駅の南側を探索してきた。
  観光マップを見ると卍マークが多く、かなりの数を確認できた。
  そして、一箇所集中して、寺町通りを形成している場所が確認できたので、そこを最後に通ってきた。

  その町並みは、「通り」らしくカラー舗装で整備され、7つのお寺が道の左右に連なっていた。
  腰を曲げぎみで、マスクをして歩いていた方に「おはようございます」と声をかけた。
  「ここは、日蓮のお寺が並んでいる」
  ということがわかった。
  そしてその婦人は、自分のお寺と思われるその門を入っていった。
  入り口にかけられている表札を見ると、「本門佛立宗」と書かれていた。 これも日蓮宗の宗派なのか初めて聞く名称。  

 さらに行くと通りの終わりには、銀行と思われる建物の入り口に、大きな案内看板がかけられていた。
  そこには、7つのお寺の配置図、寺の名前と宗派が記載されていた。
  他の6つのお寺は、一目して日蓮宗に関連するお寺ということ、そして、この道が「寺町通り」として整備されていることもわかった。

 朝食をすませて、伊賀市庁舎を訪れた。

  さて本題の視察。
  今日は、合併に伴う地域自治組織についての視察。
  伊賀市の場合は、合併特例法に基づくことなく、伊賀市自治基本条例とセットで、住民自治協議会という「伊賀流」の新しい制度を導入している。
 (松本市の場合は、合併特例法による四賀村には地域審議会、梓川、安曇、奈川村には、地域自治区という制度を採用している)

 伊賀市自治基本条例 「解説」によると、
  伊賀市の憲法として位置づけたものであり、伊賀の特性、伊賀の自治、条例制定の理由などについて記した「前文」を持っている。
  第一条(目的)の部分では、
  伊賀市における自治の基本的な事項を定め、市民及び市のそれぞれの権利や責務を明確にし、住民自治のしくみを制度として定めることにより、伊賀市独自の自治の推進及び確立を目指す と記されています。
 
 
そしてこれに基づき、住民自治協議会が、小学校区単位に設置され、「補完性の原則」に基づき、市民自身があるいは地域自らの責任のもと、まちづくりの決定や実行を行う。
  行政はこれらの活動を支援するとともに自己改革を進めるなど、あらゆる面において自立した自治を形成する。 と書かれている。

  詳細は、ここをクリック

  行政にとっては、「重たい条例」、 これからの更なる議論を必要とする制度という感想が、関係者から最後に出されたが、質問する中で、兵庫県宝塚市、山岡町、武生市などを参考に考えられ、四日市大学の岩崎恭典氏が、理論的バックにいることがわかった。
  旧上野市では、松本市のように町会組織がすでにできており、その既存組織との関係すりあわせのことが今後の課題ということも明らかになった。(伊賀市では、自治会という)

 改めての検討を必要とする中身だ。

 終了後、伊賀市の職員の方からは、忍者博物館へのお誘いを受けたが、神戸市に早く行って、時間をかけて、「人と防災未来センター」の見学を予定していたので、ご好意に感謝しながら残念ではあるが、伊賀市を後にした。

 三ノ宮駅には、2時半過ぎに到着、ホテルに荷物を預け、さっそく「人と防災未来センター」に直行、閉館時間の5時半まで、2時間を越えて見学した。
  が、まだまだ時間が足りない見学だった。  

 (「人と防災未来センター」については、後ほど)

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1月24日(月) 

  カーボンニュートラル      


 今日から3日間、京都市、伊賀市、神戸市の3市の視察に出た。
  今回の視察1日目は、京都市の廃食用油燃料化施設。

  廃食用油(使用済みてんぷら油)をリサイクルすることで、循環型社会と地球温暖化防止に向けた取り組みとして、京都市は、平成8年7月より、生成される燃料についての法的適合性について、関係省庁との協議をはじめてきた。
  品質確認法、道路運送車両法、消防法などいろいろな関係法律のクリアー、バイオディーゼル100%利用の場合には「軽油取引税」を課税対象外とすることなどを確認し、平成9年11月よりゴミ収集車全車(約220台)、H12年4月からは、市バス(約80台、軽油に20%混合)の燃料として利用を始め、H16年5月に本格的なバイオディーゼル燃料化事業として作られた施設だ。

  「カーボンニュートラル」という語句をお聞きになったことがあると思います。
 
  地球温暖化防止、循環型社会の構築に貢献する新たな資源としてバイオマスが注目されている。
  石炭や石油などの化石燃料同様、燃焼によって二酸化炭素を発生するが、植物については、成長過程の光合成で吸収した二酸化炭素を発生しているものであり、ライフサイクルで見ると大気中の二酸化炭素を増加させることにはならないと言われている。
  この点が、現在の二酸化炭素の増減に影響を与えないとして見直されているのだ。

  バイオマス燃料 ―(燃焼)― CO2 ―(光合成)−植物―植物油―廃油―バイオマス燃料

 のこのサイクルを カーボンニュートラルと呼ぶ。
  (もちろんカーボンとは炭素のことをさす。)

  そして、出来上がった燃料で、目の前をごみ収集車やバスが京都市内を走るので、市民にも「目に見えるリサイクル」として、好評との事。

  生成単価は、85円/リッター。
  軽油は98円前後だから、100%利用のゴミ収集車の場合は、税金がかからないので安いといえる。
  (排気ガスもきれい。燃費は、遜色ないとの事)
 市バスの場合は、混合軽油分の取引税を加えると、約 110円/リッター 位との事で、多少高めだが、環境へのやさしさを考えるとこれから重要になる。

  市民からの廃油の回収場所は、
  平成15年度現在 825拠点だが、平成27年までに2000拠点以上を目標としている。
  京都市は、約60万世帯。  そうすると、現在は、24000世帯に一箇所だが、これが、H27年には300世帯に一箇所となる。

  松本市でも、共立学舎で、このバイオディーゼル燃料を作り、一部公用車に使われているが、まだまだ規模は小さい。
  また、回収場所についても、現在、 芳川・寿台・里山辺 出張所 のほか、庄内・和田地区のゴミスター所で集めているだけだ。
  この問題は、先の12月議会で、南山議員が取り上げた問題。

 (松本市の現状等についての詳細は、後日報告します。)

  松本市への具体化をどうするか、すぐに検討が必要だ。  
   続きは後ほど

  さて、視察を終えて、紀伊半島に向かった。
  明日の視察地 伊賀市に向かう加茂駅からの列車は、偶然にもディーゼル車両だった。

 今回の視察も、お願いした相手市の都合等もあり、「合理的」なコース取りとはならず、京都から三重県に行き、また兵庫に戻るという結果になった。

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1月23日(日) 

  人間らしく生きる主権者として       


 生活と健康を守る会(生健会)結成に向けて、全国生活と健康を守る会(全生連)事務局長の辻清二さんを迎えて学習会を行った。

  全生連は、吉田内閣のもと、1950年に警察予備隊が作られ、社会保障制度の改悪や教科書の有料化(後にまた運動で無償に)などの中で、人間らしく生きる権利(生存権)の保障を国、自治体、企業に求める運動として、1954年に「働かせろ、食わせろ、病気をなおせ」をスローガンに、低所得者を中心に地域住民の組織として結成された。
  昨年2004年11月20日で、50周年の歴史を持つ。
  有名な「朝日訴訟」と各種制度の新設・拡充、革新自治体づくりと老人医療費の無料化、生活保護や国保での人権侵害、白内障眼内レンズの保険適用など、地域住民のこうした運動の中での実績も数多くある。
  世帯加盟を組織原則としている(こうした形態は珍しい)のは、生活費を同一にする単位で、くらしのことを考えるというのが基本にある。
  都道府県、市町村単位に組織化され、市では30世帯以上、町村では15世帯以上で結成できる。

 長野県では、残念ながら、県の組織はなく、長野市にあるだけ。
  この間私のHPでもいくつかの事件をお伝えしたことがあったが、松本市での生活保護行政の改善を求める議会内外での運動では、この長野市の事務局の方に、大変お世話になった経過がある。  そうしたこともあって、私が、議員になった頃から、松本市でも、生健会を作ろうという声は大変強かったが、残念ながら結成できずに、今日を迎えていた。

 全生連は、機関紙「生活と健康を守る新聞」(毎週日曜日発行、300円/月)を持っており、私のその読者ではあった。
 そうした意味では、誰もがその結成を待ち望んでいたものだ。

  私たち議員には、それこそ「くらし」にかかわる相談がいくつも寄せられる。
  すべてが解決できるものではないが、「うまく解決できれば、それで、終わり」というのが今までの実態だった。
 解決できないものは、しかたがないという事で、済まされてきた。
  今回、生健会が出来れば、まず何よりも悩みをみんなで共有して解決に向かうことが出来る。
  今までの相談の解決の経験の蓄積が出来る。
  そして何よりも大切なのは、人間らしく生きる主権者として、協同で自らの問題だけでなく、社会そのものをよくしていくという方向に発展できる。

 「生活保護を受けられればそれで良いという事ではない。そこから人間らしい生活をいかに実現していくかが始まる。」
  参加者からの発言だった。

 所得階層の2極分化が進んでいる。
  生健会の役割がますます増してくる。

 当面の連絡先、相談会を開催することを確認して、準備会を終えた。

  名称や会費については、結成会までに検討することにした。  

 仮称)生活と健康を守る松本の会  
   
連絡先  松本市浅間温泉2-14-16 伊藤嗣三 電話46-4785

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1月21日(金) 

  「共産党も変わったものだ。」       


 松本市社会福祉協議会鎌田支会の新年会が、行なわれた。
  議員に当選してから毎年、お招きいただいている新年会だが、 挨拶をさせていただく機会があったので、次のようにお話をさせてもらった。

 昨年は、災いの年。国内外ともに大変年だったが、松本市では、「市民が主役」の新しい市政が誕生したことが一番大きなニュースだった。
 そんな中で、日頃からの地域福祉に携わり、ご尽力いただいている皆さんの活動に関して敬意を表するとともに、先日1月17日豊科町で行なわれた第10回松本広域圏震災総合防災訓練での終了式で、陸上自衛隊松本駐屯地 村永次郎司令が行なった挨拶をご紹介します。
 村永司令は次のように2つの話をまとめた。
  1つは、新潟中越で、住民の皆さんが、まさか私がこうした震災の被害に逢うとは思わなかったという声を紹介し、意識の問題として、震災をはじめあらゆる災害に、日頃から備えることの重要性。
  2つに、自分は、阪神淡路時の被災者でもあるが、今回の中越地震との一番の違いは、阪神淡路の時は、地域住民の安否の確認にかなりの日々を費やした。一方今回の新潟中越では、長いところでも、地震発生から3日間で、全員の安否が確認できたという。  
  日頃からのご近所づきあい、コミュニティの重要性を再認識されたのが、一番の教訓だった。  
  いよいよ、社会福祉に携わる皆さんの出番。皆さんの日頃からのご奮闘が生かされる市政に向け力を尽くしたいと思います。
 福祉ひろばに、地域担当の保健師さんが常駐され、送迎のボランティアに対する支援対策(保険への援助)など実現する運びになりました。
  安心してくらせる「市民が主役」の市政実現に向けがんばります。

 乾杯の後、皆さんとの懇談のなかで、この私の挨拶が、いくつかのテーブルで話題となった。
  「共産党も変わったものだ。自衛隊の話が出るとは思わなかった。いいものはいいという事が気に入った。」

  まだまだ、共産党の本当の姿を知ってもらわなければと、改めて実感した。

  「そんなことは、ないですよ。池田さんはずっと以前から、そうした姿勢でやっていますよ。」
  そうした感想を述べてくれた方もいらっしゃった。

 正直嬉しかった。

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1月19日(水) 

  福祉ひろばに保健師が常駐       


 午後1時半からの、教育民生委員協議会。
  市長公約に基づいて、福祉ひろば関係課職員と公募職員による「地区福祉ひろば庁内研究会」によるの研究の中間報告がされた。
  地域の皆さんの強い要望であった地区福祉ひろばへの保健師の常駐による訪問・相談業務の充実の方向が明確に打ち出された。

  この庁内研究会は、助役を会長に27名で構成。
  2回の全体会と3つの部会に分けた分科会をおのおの8回から9回、昨年の7月から12月まで開催した。
 この庁内研究会による「地域福祉を考えるシンポジウム」も昨年12月に、市内3箇所で、あわせて約250人の市民参加のもとで行われた。

 分科会は、
第1部会 「福祉ひろばのユニバーサル化に向けて    (9回開催)
第2部会 「安心24時間対応を考える」         (8回開催)
第3部会 「地域を基礎に問題をかいけつしていくには」 (8回開催)
   をテーマに行われ、
  市長への最終報告は、今月中。
  「中長期的提案」と「H17年度実施に向けた提案」とに分けて行われる。

  「H17年度実施に向けた提案」とは、現在策定中の来年度予算にさっそく盛り込まれる事業計画だが、各部会ごとに次の点が明らかにされた。

 第1部会:
@ 地区福祉ひろばへの保健師の常駐による相談業務の充実
A 出張所職員、公民館主事の福祉ひろば業務の兼務による地域づくり連携
B 「地区福祉ひろば事業推進協議会」に地区担当職員や高齢者、障害、子供等の関係者の参画促進
C 「地区担当職員連絡推進協議会」(保健師、公民館・出張所職員等から構成)の開催による行政内部の連携
D 「地区福祉ひろば事業推進協議会」の定期的なアンケート実施によるニーズの把握と事業企画
E 人材バンク登録による人材の掘り起こしとその活用 F 送迎ボランティアの支援(ボランティア保険加入の補助)

 第2部会:
@ 介護110番ステッカーの作成と全戸配布
A 福祉ひろばの電話を夜間・休日市役所宿直日直に転送し対応
B 緊急時一時保護施設の確保(委託)
C ケースワーカーと保健師の地区配置と地区担当辞令の発令
D 地区安心センター(仮称)のモデル実施

 第3部会:
@ 福祉コミュニティづくりに向けた
  (1)来年度2〜3地区を選定し、地域防災を含めた福祉コミュニティのあり方を検討する。
  (2)地区自治支援チームの活動について実践的に研究する
A コミュニティワーク研究所の設置
    コミュニティワークとは何か、なぜコミュニティワークなのかを協議する。
   また、研修のあり方や内容についても研究する。
B 狭域自治支援のあり方やコミュニティ再編のための研究組織の設置
  広域課題の明確化と狭域自治の支援体制、コミュニティ再編の研究のための組織を設置する。


  これだけの文面では、実にイメージがわかない。
  私は、率直にそう発言し、全体像が把握できるようなものを求めながら、具体的に2点だけ質問してみた。

  1つは、 「第1部会:@地区福祉ひろばへの保健師の常駐による相談業務の充実」  の部分
  これに関しては、  
  将来の松本市の福祉の「
あるべき姿」「最終的な到達点」(健康福祉部)として、打ち出すもので、保健師を福祉ひろばに配属し、直接福祉ひろばを拠点に活動する。
 今まで、松本市の保健師さんは、本庁と3つの保健センターに勤務してから、「担当地域に出かける」という勤務体制であったものを、「現場を拠点」に活動する方向を明確にした。
 「事務から訪問活動」に切り替えるもので、検診結果など事務処理は、事務担当職員を増やして、地区担当の保健師を近い将来、地区福祉ひろばに、勤務させ、そこから活動を展開する。
  さしあたりこの4月から、本庁にいる地区担当保健師を3つの保健センターにまず分散配置し、経験をつんだ後、さらに福祉ひろばに分散・常駐させる方針だ。
 児童虐待防止対策として、現在希望児に対してのみ行なっていた家庭訪問を、この4月から第一子新生児の全児に拡大する方針も打ち出したが、そうした分野でも力を発揮できるようになる。

  2つ目。 「第2部会:緊急時一時保護施設の確保」の部分に関しては、
  介護保険での、ショートスティは、予約いっぱいで、今日明日すぐの文字通りの急な対応は出来ない状況の中で、介護保険とは別に、このショートスティ事業を行なうもの。
 負担は、介護保険並みを予定している。 という回答が返ってきた。  

 委員協議会に提出された詳しい資料は、ここをクリック(一両日中に発信します。)

  今後、全体像に関しては、もう少し分かりやすい資料が出され、2月議会に予算とともに提出されるとの事。

 少しずつだが、安心して暮らせるまちづくりが、具体化に踏み出している。

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1月18日(火) 

  菅谷市長のメッセージ     


 すげのや昭後援会'05新年会が、15日(土)に開かれ、菅谷市長は、次のように挨拶した。(要旨)  
 
  「昨年の3月14日に市長に就任、15日で、ちょうど10ヶ月。 いつも申し上げているが、基本的には「市民が主役」という事で、市民の目線でやっている。 場合によっては、皆さんの要求・ご要望を100%というわけにはいかないことがある。 民主主義と多数決の原理にそって、私が思っていることと違っても市民の皆さんの多数決の原理で仕方がないことがある。 そんな中で、市民の50%の支持を得ていれば、十分であろうと思っている。 これからの政策におきましても、ある意味ではご理解いただける、また皆さんの声を聞いて反映することが必要である。 「合併」と「市民会館問題」という2つの問題を背負い込んで、覚悟して取り組み苦労したが、1つの道筋をつけたがこれからがスタートである。 松本空港問題もひとつの進展。 新年度の予算編成と4月からの新人事のことが市民の皆さんの大きな関心事であるが、三位一体改革の厳しい中で、お金のない中、前年度までの踏襲はやめて、危機管理に強い災害に強い街づくり、福祉、医療、子育て支援などに力を入れたい。」

 市長は、9月に発行されたすげのや昭後援会ニュース第4号で、「私のリーダーシップ」論を次のように述べている。

  「いわゆる即断即決、あるいはトップダウンというかたちもあるでしょう。しかし私は、皆さんの意見をじっくり聞き、そのうえで責任を持って判断するのも「リーダーシップ」ではないかと思います。」
  「いま「市民が主役」です。皆さん自身がいいアイデアを持ち寄って、ともに汗をかいて行動することが必要なときです。主役である市民には、責任と義務とが伴うことを是非自覚していただきたいと思います。そしていまの行政の役割は黒子として、主役である市民の皆さんのあらゆる活動の縁の下の力持ちになることです。このような市民と行政の関係こそが私のめざす協働のあり方であり、そこで私の「リーダーシップ」がお役に立つのだと考えています。」

 全文は、ここをクリック

 そして、4日の新年祝賀会では、今までの「菅谷丸に乗ってください」から、一歩進めて具体的に、次のように述べた。

  「松本丸もいよいよ二年目の航海に入ります。   この船はその船旅において必ずしも、常に順風満帆とはいえないでしょうが、どうか市民の皆さんには引き続き乗船していただき、乗客としてだけではなく、時には乗組員として、ご一緒に汗を流しながら、ともに理想の島を目指して航海を楽しんでいただければと考えております。」
    詳細は、ここをクリック

 いずれも、菅谷市長の市民への強力なメッセージだ。

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1月17日(月) 

  「6433」と「6432」     


 NHKの朝の連ドラは、いつも欠かさず見ていることは以前お知らせしたことがありますが、今はご存知の通り、「わかば」です。
  父の志をついで、造園家を目指すヒロイン若葉の物語。

  舞台は「阪神淡路大震災」。
  「ドラマでは、ヒロイン・若葉が、失恋、就職、そして新たな恋、結婚、出産を経験しながら、震災で傷ついた家族のこころの再生を成し遂げるまでの、2000年4月から2005年までの5年間を情感豊かに描いていきます。」
  とNHKで番組紹介されている。

 今日は、 2002年の1月17日、午前5時46分。
  阪神・淡路大震災から7年目の朝を迎えた「阪神淡路大震災1.17のつどい」のシーンから始まる。
  その中で、叔母役の東ちづるが、竹灯ろうに「1.17希望の灯り」を分灯する中で、「6432人」と語った。
  おや?と思った。
  私は、最新の数字で「6433」という数字を確認していたからだ。
  間違いではない。何かあると思って、早速調査した。

  震災死の方は、直接死と関連死の方を合わせての数字であるが、神戸市にある人と防災未来センターの資料室に確認をしたところ、それまで6432人であった震災死の方の数が、8年目の1月17日の直前の12月に、芦屋市の男性の認定がされて、一人増えたという事が分かった。
 記事では、裁判で市長が敗訴した結果とも書かれているが、これ以上の詳細は分からない。

  神戸新聞の記事は、ここをクリック

  ただ、数字の違いには、必ず何かの事情や人々の暮らしや人権が必ず隠れている場合が多い。
  これが今までの私の経験則で、曖昧にしたくなかった。

 復興は、テレビ画面や写真で、「順調」を強調する傾向が強いが、決してそうではない。
  朝、9時から行なわれた第10回松本広域圏震災総合防災訓練に参加した後、月曜日定例の議員団会議で、「阪神・淡路大震災10年の教訓」の読み合わせ学習を行なった。
 経済1月号に掲載された紙上シンポジュウムだが、阪神・淡路大震災10年の教訓を引き出す上での重要な視点が示されている。
 1月17日を境に、特集番組が、何本も放映され、新聞などマスコミも特集を組んでいるが、忘れてはいけない基準を確立する意味で、議員団会議の本日の最重要な議題とした。  

  「わかば」では、主人公が、墓参りの後、もと住んでいたところを訪ねるが、「まるで違うとこみたいや」の町並み。
  そして、行き着いた自分のもとの家の場所は、空き地のままになっている。
  という設定だ。  このシーンから何を汲み取るべきなのか。重要な視点だ。

 (続きは後で)

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1月12日(水) 

  「遥かなるクリスマス」     


 今日付けしんぶん「赤旗」の読者の広場に掲載されていた、「さだまさしが紅白で反戦歌」を読んだ。
  そういえば、大晦日の日、しばらくウトウトしていたときに、さだまさしの歌は終わったのだが、あとで妻が、さだまさしが、今までにない歌い方で、平和のうたを熱唱していたということを言っていたのを思い出した。
  読者の広場の投稿は次のように書いている。

  さだまさしの「遥かなるクリスマス」を聞いて感動した。 アメリカ軍のイラク攻撃、そこへ派兵し、戦争する国へと舵を切った日本。 「平和」に暮らす「僕」は、いつか自分の子供を戦場に送ってしまわないかと問う。 「生きてくれ生きてくれと叫ぶ」 さだまさしは、広島の日8月6日に毎年、長崎で無料のコンサート「平和を考える入り口」を開いて来ている。 イラン・イラク戦争の時に「前夜」という歌も作っている。 「紅白」では、時間の関係上歌詞が削られていたが、「不毛な殺戮への最後の抵抗歌」として書き上げたのがこの歌のメッセージ。 この曲が静かに広がることを願っている。

  と、その投稿は結ばれているが、正直あまりさだまさしに関心がなかったので、知らなかった点が多かった。
 インターネットで検索したら、部分ではあるが、サイトが見つかった。
   ここをクリック

 そして、歌詞が載っている別のサイトを見つけることができた。
 歌詞のすべてを紹介します。

  遥かなるクリスマス   さだまさし作詞・作曲

  メリークリスマス
  二人のためのワインと それから君への贈り物を抱えて駅を出る 外は雪模様 気づけば ふと見知らぬ誰かが僕にそっと声をかけて来る 振り向けば小さな箱を差し出す 助け合いの子供達に僕はポケットを探る 携帯電話で君の弾む声に もうすぐ帰るよと告げた時のこと ふいに誰かの悲鳴が聞こえた 正面のスクリーン激しい爆撃を繰り返すニュース 僕には何にも関係ないことだと 言い聞かせながら無言でひたすら歩いた

  メリークリスマス
  僕達のための平和と 世の中の平和とが少しずつずれ始めている 誰もが正義を口にするけど 二束三文の正義 十把一絡げの幸せ つまり嘘 僕はぬくぬくと君への 愛だけで本当は十分なんだけど 本当は気づいている今のこの時も 誰かがどこかで静かに命を奪われている 独裁者が倒されたというのに 民衆が傷つけ合う平和とは一体何だろう 人々はもう気づいている 裸の王様に大人達は本当の事が言えない いつの間にか大人達と子供達とは 平和な戦場で殺しあうようになってしまった 尤も僕らはやがて自分の子供を 戦場に送る契約をしたのだから同じこと 子供達の瞳は大人の胸の底を 探りながらじわりじわりと壊れていく 本当に君を愛している 永遠に君が幸せであれと叫ぶ その隣で自分の幸せばかりを 求め続けている卑劣な僕がいる 世界中を幸せにと願う君と いえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる

  メリークリスマス
  僕は胸に抱えた小さな 君への贈り物について深く考えている 僕は君の子供を戦場へ送るために この贈り物を抱えているのだろうか 本当に愛している 永遠に君が幸せであれと叫ぶ 本当に君を愛している 永遠に永遠に君が幸せであれと叫ぶ

 メリークリスマス
  凍てつく涙を拭いながら 生きてくれ生きてくれと叫ぶ 雪の中で雪の中で雪の中で 白い白い白い雪の中で

  メリークリスマス
  メリークリスマス

 
  コンサートには、いけないので、CDで聞いてみることにしたい。

  (追伸:発信前の13日夜、事務所の宿直でTVを見ていたとき、偶然NHK「夢・音楽館」を見た。
   さだまさしは、
   思っていることを躊躇しないで書いた作品。すべて直接に言ってしまった作品が、この「遥かなるクリスマス」」
    と語っていた。)


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1月11日(火) 

  「こういう憲法を作ったことは世界に誇るべきことだと
          皆が言うたことをお忘れになっては困ります。」 
     


 HPをご覧いただいている方から、メールをいただいた。
  昨年3月10日付け市民タイムスの7面、コラム「炉辺閑話」の 高坂邦彦氏の「・・お忘れになっては困ります」のファイルだった。
 その方は憲法九条を守る運動を進めている人だが、正直私は、見落としていた記事だった。

 市民タイムスによれば、高坂邦彦氏は、 書き出しで、
  「菅直人氏が、『今の憲法は占領軍におけるマッカーサー憲法だ。自分たちの憲法をつくろう。』といったそうです。忘れたのでしょうか。当時、日本側が作った改正案をみなが大反対したことを・・ 」
  と始め、続いて、
  「日本側の見識や能力を見限った占領軍が、民主主義も男女同権も人権保障も何もかも押し付けて教えてくれ、それを国民は大歓迎したのです。」
  と冒頭を結んでいる。
  そして最後の部分では、日本国憲法公布状に名を連ねている国務大臣植原悦二郎の昭和33年憲法調査会での次のような発言を紹介している。

  「この憲法は、アメリカから与えられたものだといいますが、明治憲法だってプロシャ憲法の焼き直しだけれども尊い帝国の憲法になった。与えられたものだから全面改正しなければならないというのはですな、一切の経過からみて私には納得できないことであります。皆様方ご記憶でありましょう。こういう憲法を作ったことは世界に誇るべきことだと皆が言うたことをお忘れになっては困ります。」

  そして、この国務大臣植原悦二郎の発言が、このコラムのタイトルとなっているのだ。

  国務大臣植原悦二郎(うえはらえつじろう)といえば、自民党の国会議員、安曇野の生んだ郷土の憲法政治学者という紹介がある人。
  詳しいことは、あまり知らないが、メールには 高坂さんの著書として、 穂高中学校長のときの校長講話を本にした「空を見よ」  「清沢洌と植原悦二郎」 「戦前日本の外交批評と憲法論議」 の紹介があった。
  いずれも読んだことのなかった著書。 機会を作って読んでみたいと思う。

  尚、2005年3月10日付けの市民タイムスの記事は、現在市民タイムス社に交渉中ですが、OKが出れば、全文掲載したいと思います。
  さらに、どうしても必要な方は、メールをいただければ、メール添付で、お送りできます。

  戦後60年、今こそ平和の願いを「9条を守ろう」という思いが、あらゆるところから湧き上がる寄せられるこの年にふさわしい実に嬉しいメールだった。

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1月7日(金) 

  米国主導でない国連中心主義の具体化の一歩      


 スマトラ島沖地震による大津波被災国への支援策を協議した緊急首脳会議で、アメリカが主張した「中核グループ」による一部支援国中心の復興が否定され、国連の枠組みで協同して復興に当たることが確認された。
  今日の国際社会における国連中心主義の重要性を改めて浮き彫りにしました。

  新年最初の議員団会議は、このことの議論から始まった。
  国連を無視して、イラク戦争を実行したアメリカが、「復興」において主導権を握ろうとした今回アメリカの目論見。
  「国際的な連合を率いる」(ブッシュ大統領)として、日、米、インド、オーストラリア、カナダ、オランダからなる「中核グループ」中心の支援活動の主張は、退けられました。
  当然のことです。
  国連のアナン事務総長が、「今回の被害は、国連が発足して以来最大規模。国連は救援活動の国際的調整の先頭に立つ」と述べたように、こういう時こそ、主導権争いでなく、国連の役割を発揮することが重要だ。
  ましてや、「イラク戦争の失政をカバーするため」「それでも主導権だけは握りたい。」「あわよくば、アジアでの覇権の確保」を狙っての今回の提案が、退けられたのは実に画期的なことだ。

 そんな中で、ドイツの果たした役割は、日本との違いで歴然としている。
  ドイツは、イラク戦争に対しても、反対の態度を表明したが、今回も「これだけの規模の災害復興は、国連を通じて諸国家が緊密に協力していくことでのみ可能だ」とシュレーダー独首相が述べたという。
  そして、欧州諸国も、「これ(『中核グループ』中心)では、イラク戦争を実行した米国主導の『有志連合』と同じだ。」と批判したという。

  米国主導でない国際協力の必要性とその広がりは、今後の平和秩序の確立にも必ずや良い結果につながる新年早々の実に明るいニュースだ。

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1月5日(水) 

  「Ryu」      


 「Ryu」といえば、冬のソナタの主題歌「最初から今まで」歌ったシンガーソングライター。
  NHKの暮れの紅白歌合戦にも出場した。 その「Ryu」が、今週の1月9日付けしんぶん赤旗日曜版の「ひとインタビュー」にでている。
 今日は、事務所の宿直の日。

  しんぶん赤旗日曜版が、夜到着する日。
 その日曜版の「ひとインタビュー」に、「Ryu」の記事が載っていた。
 正直感嘆した。

 「ひとインタビュー」は、日曜版の裏表紙で、いわば第2「1面」にあたる部分だ。
  正直、紅白でもあまり印象がなかったが、プロデューサーもこなす「Ryu」。 3オクターブの声域を持つことも紹介されている。
  そして、「お金もうけしか考えない歌手」だけではなく、「音楽を通して韓国と日本がより親しくなっていくことに寄与していきたい。」と語っている。
  韓国は、つい最近まで、文字通り「反共」国家だった。
  その韓国のシンガーソングライターが、日本共産党のしんぶん赤旗の紙面を飾り、日本と韓国との交流を強調する。  まさに隔世の感がある。
 Ryuさん自身が、赤旗のインタビューに答えるところに、時代が変わったという事と同時に、日本共産党「観」が海外では変わっている事のなによりもの証明であることを知ることが出来る。

  いわゆる「反共」国家の韓国と日本共産党との関係については、韓国「東亜日報」(03年6月10日付)の次の記事が、当時注目だった。

日本共産党との交流への前向き発言〃
  盧武紘(ノ・ムヒョン)大統領は日本国賓訪問最後の日の9日、韓国大統領では初めて日本共産党との交流を受け入れる意思を表明したと、産経新聞が10日付で報じた。
  盧大統領は、衆議院議長主催の懇話会で、日本共産党の志位和夫委員長に「韓国は現在、共産党の活動を認めていないが、(これは)民主国家としては問題だ。私が日本共産党を受け入れる初めての韓国大統領となるだろう」と述べたという。
  志位委員長は、「韓国の『参加政府』の政策構想と南北の平和繁栄政策に共感する」と述べ、韓国との交流拡大を希望した。
  日本共産党は、金大中政権の時から、党代表団の韓国訪問や党機関紙「赤旗」のソウル支局開設などを打診していた。 1922年に発足した日本共産党は、旧ソ連や北朝鮮の共産主義とは違って私有財産を認め、日本の侵略戦争に反対するなど、自由と民主主義を優先的な基本理念とする合法的な進歩政党だ。
  北朝鮮とは、83年、北朝鮮のミアンマー・アウンサンテロ事件を契機に交流が途絶えた状態。
  …時代の変化に合わせて党綱領から「共産主義革命」や「米帝国主義」などの表現を削除する動きを見せている。
  最近では、有事法制反対の署名運動を主導し、政治家の妄言糾弾の先頭に立っている。 一方、大統領府報道官は、盧大統領と志位委員長との対話録を公開し「盧大統領が『韓国でも共産党が許容される時、初めて完全な民主主義になる。(日本共産党の)韓国訪問を歓迎する』と述べた」とのべ、「共産党許容」部分について、「盧大統領が言及した共産党は、欧米や日本のように合法的な枠内で活動し、制度圏内に進出した共産党を意味する。
  日本共産党委員長との対話過程で出た言及という点を十分に考慮してもらいたい」と説明した。

  こうした報道に見られるように、それ以後でも、私の記憶では、しんぶん赤旗に、韓国の「スター」が掲載された記憶はない。
  いわば歴史の画期ともいえるものだ。

 その記事は、ここをクリック
   下のほうに紹介があります。

 その、「Ryu」が、作った作品に、「冬のソナタ」での「最初から今まで」がある。
  今日からしばらくは、妻が買ってきた冬のソナタのCDが、車の中でその「Ryu」の曲を奏でることになる。


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1月4日(火) 

  「日露戦争100年と作家の史眼″」 司馬遼太郎と松本清張の違い      


 新年祝賀会。
  今年は、今までと違う立食形式で行われた。
  菅谷市長は、概要次のような新春の挨拶をおこなった。

  「私は、この九ヶ月間、市政の主役は市民であり、行政は市民を支える黒子であるとの基本的な考えのもと、市民の皆さんには主役としての権利と、それに伴う責任と義務を果たしてもらいたいとお願いしてまいりましたし、また、黒子としての市職員には常に市民の目線で行政に取り組むよう指示してまいりました。
  私は、気負わず、地道に、自分のできる範囲で、市民の皆さんの声を聞きながら、ともに住みよい街づくりをしていくことを、市政運営にあたっての基本姿勢としております。
  今年も、国の三位一体改革のもと、地方を取り巻く状況は非常に厳しいわけでございますが、このような考えのもと、今年は私が公約に掲げるあんしん、安全な街づくり、そして量から質への転換を図り、住みよい松本のまちづくりを、市民の皆様と協働して行ってまいりたいと考えております。」

  挨拶(概要)の全文は、ここをクリック

 挨拶は、市長、議長で終わり、すぐに乾杯、懇談に移った。

 暮れにしんぶん赤旗日曜版の購読をお願いした方との懇談のなかで、新春合併号の中の、 「不破さん青年と語る 戦後60年 世界とアジア、そして日本(上) 」の記事が話題となった。
  戦後60年 日本軍国主義による侵略戦争を「正しい戦争だった」とする戦争美化論の横行や台頭が目立つ中で、 不破さんが、「日露戦争100年と作家の史眼″」のなかで、作家、司馬遼太郎と松本清張の違いを語り、あの戦争はなんだったのかに触れている部分だ。

 「作家司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説は、結局、明治の日本を、もっとも偉大な国民的発展の時代として描いた。日露戦争は、めざした「坂」の上に登りつく最後の奮闘だった。 しかし、実際は違った。明治の日本が登った「坂」は、国民的発展の「坂」ではなく、ヨーロッパ諸国のような、植民地を待った大国をめざす「坂」でした。

  という部分に関連したことだと思った。
 その方は、学校の先生をされていた方で、文字通り「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンのもとに、教育を行なってきたと思う。

  「不破さんの指摘に興味を持った。是非そのことに触れている、『新・日本共産党綱領を読む』を読んでみたい。」

  この『新・日本共産党綱領を読む』は、昨年12月15日に発刊されたばかりのもので、ちょうど私も今読んでいる最中のものだった。
  その場で、本で書かれている部分については、お届けしますと約束をした。

 この司馬遼太郎と松本清張の違いの指摘は、是非皆さんにも読んで頂きたいので、部分ですが、全体をご紹介したいと思います。

 しんぶん赤旗日曜版 の 特集の この部分は、ここをクリック
   尚、(下)は、1月9日付け日曜版に連載されます。

  また、「新・日本共産党綱領を読む」のなかでのその部分は、ここをクリック

 戦後60年の今年、新春の最初の懇談にふさわしい中身になって、実に嬉しかった。

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1月2日(日) 

  2005年を着実な前進の年に      


 新年恒例の松本駅前での新春街頭宣伝。
  澤田、犬飼議員とともに正午から行った。
  二人に続いて、私は、大要次のような訴えをした。

 今年2005年は、阪神淡路大震災10年目の年。1月17日がその日に当たる。 昨年は、国際的にも「災」の1年、被災者の皆さんにとって、まことにきびしいなかでの年明けになりました。お見舞いを申し上げると同時に、松本市でも防災・危機管理の確立目指して、今年一年力を尽くしたい点。  

  2つ目に、今年は、終戦60年を迎える年。 戦後、「戦争はしない」、「戦力は保持しない」と国際公約した日本が、今その憲法を変えようとする動きが強まっている。  それに対する、松本市をはじめ全国で、「9条を守る会」の活動が、大きく広がっている。  この問題でも重要な年。

  3つ目に、松本市での昨年の一番の事件は、なんと言っても菅谷市長の誕生。 日本共産党は、3月の市長選挙で、住民が主人公の新しい市政実現に向け、多くの市民の皆さんと力をあわせて、菅谷昭市長誕生に貢献できたことに誇りを持っている。  今年、2005年は、その「市民が主役、行政は黒子」の新しい松本市政実現に向け大きく前進させることが可能となる条件がある。 この一年間の最大の教訓は、道理ある主張・提案をどれだけ行うかが重要であり、今後の日本共産党の市会議員団の役割が、今まで以上に求められること。 4月1日には、現在の四賀村、梓川村、安曇村、奈川村を加えて新しい松本市が発足する。 新松本市は、これら村の方々の文化・福祉などの伝統を全市に生かすとともに、全市的に地域自治のあり方を模索・確立する年にしたい。

  最後に、今年は、国政選挙がない年といわれているが、そうしたチャンスを生かして、日本共産党が、文字通り力をつける年にしたい点。 私たち自身が学習を積み重ねながら、ぜひ多くの皆さんに、しんぶん赤旗を読んでいただきたいことと、また日本共産党の一員になったいただきたいこと。

  と率直な思い、決意を訴えさせてもらった。

  駅前は、道路の脇には大晦日に降った雪が残り、歩道は、一人分の通路が確保されていた。

  今年は、早速この1月下旬に、伊賀市、神戸市、京都市の視察を予定している。
  伊賀市は、地域自治組織のあり方について
 
神戸市は、震災・危機管理対策
  京都市は、環境行政 
   を考えている。

  新年の恒例の訴えだが、さわやかに気持ちを新たにすることが出来た。

 改めて、新年明けましておめでとうございます。
  いつも、お読みいただきありがとうございます。
  今年も、どうかよろしくお願い致します。


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