ニッポン 人・脈・記 経団連を信じてしまった 手をつなげ ガンバローM
阪神大震災、地下鉄サリン事件があった95年。日本経団連の前身、日経連が提言を出した。
労働者を次の3つにわける。
@幹部候補の基幹職
A高度な能力を使う専門職
B雇用柔軟型の一般職
正社員は@の基幹職だけ。AとBは必要な時だけ使う。
「新時代の日本的経営」と呼ばれるこの提言は、12年後のいまを予言している。Bの「一般職」を中心にする非正規社員は増え続け、労働人口の3人に1人、1700万人になった。
提言から2年後の97年、最大の労働団体・連合の事務局長に笹森清(66)がつく。01年に会長に。その経歴は、金融危機から大企業中心の景気回復に、という日本経済の移り変わりの時期とだぶる。
笹森は悔やんでいる。
「一番の失敗は、派遣法の規制緩和を認めてしまったことだ」
86年に施行された労働者派遣法は当初、人材派遣を。通訳や旅行添乗員など高度な技術がいる分野にかぎって認めていた。
数回の改正で認める範囲が広がり、04年、ついに製造業にまで広がる。笹森は、その時の議論で、経団連の役員に「悪い経営者ばかりじゃない」といわれ、それもそうだ、と信じてしまった。
景気回復で求人は増えたが、派遣での就職が広がった。しかも、製造業の現場では「偽装請負」が横行、トヨタ系メーカーやキヤノンなど、経団連首脳を出す大企業が率先して悪用していた。「ひどすぎる」と笹森はいう。
笹森は、高校をでて東京電力に就職した。母子家庭だったので母が特に喜んだ。軟式テニスの腕前が全国レベルで目立ったためか、労組に誘われた。労働界のリーダーは「労働貴族」とやゆされるが、笹森は奮闘した。
たとえば、外部から連合がどう見えるのか評価してもらう委員会を立ち上げた。弁護士の中坊公平(78)らが1年半かけて議論を重ねた報告書は、厳しかった。
「組合員は恵まれていると自覚し、自分よりも弱い立場の人々とともに闘うことが求められる」
中坊に「この報告書を神棚に上げないで」と念を押された。笹森は、58あった加盟組織を回り、「変わろう」と語りかけた。
02年、パートや派遣、リストラされた管理職など、さまざまな個人が加入する労組が集まってつくった「全国ユニオン」が、連合に加盟したい、といってきた。笹森は大歓迎だった。だが、大企業の労組出身者が占める連合幹部らを説得するのに半年かかった。
笹森は、球団の合併問題でゆれたプロ野球選手にも教えられた。
04年8月12日、スト権を確立した日に選手会会長古田敦也(42)が訪ねてきた。古田はストを「土日」に決行するという。笹森は「球場に来てしまうファンはどうするんだ」といぶかった。選手たちは、球場前でサイン会や握手会をし、世論は史上初のプロ野球ストに声援を送った。
笹森は思った。「労働界は、こんなに共感がえられるか。おれたちは覚悟と努力が足りない」
笹森の連合改革は道半ばだった。一方、経済界は、小泉政権の規制緩和路線の下、雇用の非正規化を加速させた。
笹森退任にともなう会長選に、全国ユニオン会長の鴨桃代(59)がかけ込みで出馬した。「非正規社員の心に届く活動を」という訴えが響き、UIゼンセン同盟会長だった高木剛(64)に善戦した。
連合は今月11、12日の定期大会で、非正規社員への支援に最優先で取り組む方針を決めた。連合の存在が問われる背水の陣である。
労働運動は立て直せるか。早大教授で労働社会学の河西宏祐(65)は「産業別労組に期待するしかない」という。河西は笹森と同じ時期に東電社員だった。だが、労使をあげた社員管理が嫌で2年でやめ、アルバイトをしながら大学院に通った。「企業別労組には失望しました」
産別が団結し、スト権をもって交渉するなら闘い抜ける。国際的にも、ふつうは産別が力をもっている。これが河西の主張である。 河西が注目しているのは、広島の「私鉄中国労組」。バスや電車など5県24社の労組があつまる産別だ。ここの強い交渉力で、広島電鉄で3年働いた契約社員は、希望すれば全員正社員になれることを勝ち取った「小さな希望を感じるのです」
(鶴見知子)
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