「大海嘯」                   
                        中川さんのお話 その1

 内陸から来ている先生、校長、教頭先生も経験がないと津波は何ということになる。
  「津波が来るぞ」 と言うと、 津波はなに? となった。
 津波は世界語のはずなのに、 前は、津波は「海嘯」といった。
  津波と言うようになったのは、昭和になって、S10年代となってからか。
  一般的には、水が来て家が流れることを津波と言っていたが学者の間では、海嘯 大海嘯 と呼んでいた。
  荒れるという状況が極度に達したことを言っていた。
  「唐丹(とうに)」鯨浜 というところへ行ってきた。
  真ん中に通路があり、海から20mぐらいのところにある。
  通路の山側の家が流れている。 エーここまで とびっくりした。 20mと言うと、このうちの屋根を通り越したと言うことになる。 私たちにとっても恐怖だ

 津波には、いくつかの言い伝えがある。
  津波が来たら、親でも子でも 助けてはいけない と言うことわざがある 「命てんでんこ」だという。
  日本共産党の 中央委員会の 文化部長をやられた 山下さんが 「津波てんでんこ」という本を書いていますが、  別々だよ 逃げるときには助けたりしてはならない。自分だけ逃げる。
  そうすると、うちを守る人、仏さんを守る人が残るから もし助けようと思っていたら 自分まで死んでしまう。
  背中を海にむけ波と競争してはいけない。 波を横切るように高台に上がれ。 波と競争して勝つ人は、いない。
  地震が来て、波が引いて 引きなみを見たら、逃げろ これが原則。
  それぞれの土地土地、湾の形によって特徴がある。 地域で特徴があり こうすれば助かるよという言い伝えがある。

  今日、唐丹(とうに)に行ってきた。
  私は、S8年生まれだが、  そのとき この集落には、133軒あったところが、131軒流れて、残ったのが2,3軒というところへ行って、 そのとき、明治の時にも流れたからことわざがあって、この道路から下に絶対家を建てない。
  そうなっていたのに、堤防が出来、道路が出来、なんとはなしに津波はもう安心だということが出てくる。
  土地が狭いですから、下のほうに下がっていく。 三陸は、でこぼこののこぎりの歯みたいに、北上山地が海のとk路にすとんと落ちたところに、わずかの平地が広がっている、 次男三男に分けてやる土地がないから、あっちに建てようかということであっちに建てた。

 今回、本郷というとところでは、見事に道路下が一軒もない。
  道路から上は、何の被害もないということがあり、 自然の災害の中でも、津波ぐらいひどい災害はない。

  どの集落に行っても、津波記念碑が建っている。
  それは、みんな警告を発している。 絶対津波は来る。
  石応禅寺にあるものには、 「戯言ではない。絶対津波は来る」 と書いてある。
  ところがみんな津波を忘れつつあって、 今度来たら大変な災害となるという警告が、あるんです 警醒の碑 予言をしている。 でも人間は、不遜なところがある 自然に勝てる気持ちになって、これくらいのものを作れば大丈夫 そろそろ海に近づいて しっぺ返しを受け、大災害になる。
  何か自然が人間のほうを見ていて、こいつは俺のところをなめているぜ。一つ私の力を見せてやろうか。 それが津波で それの繰り返しをやってきた。
  何百年も前から津波の記録があるがそのたんびに警告が発せられている。
  どこの津波の碑にもかならず津波が来ると書いている。
  これ以上大きな津波が来る。津波が来たすれすれのとことに碑はある。
  だから肝に銘じて、こういうこと(書いていること)を守れと書いてある。
  海岸に行ったら記念碑を探してみてください。必ずあります。流れるところにない。すれすれのところにある。 釜石の 石応禅寺にあります。

 (それらに関しては、次をクリック  その1   その2 )

  これは、今度のことをあらわしている碑ではないかと私は思う。
  大体の集落に記念碑がある。
  箱崎に行くと M29年の 学校の奉安殿 天皇の写真を持って逃げようとして 津波に流された人がいる。 その人を、忠君愛国の士としてたたえた碑がある。

  その2に続く